手術も抗がん剤も怖く、治療を受けずに死を待ちたかった
アメリカに勤務していた息子は、3年前のコロナ禍を機に一時帰国する。その後、現地に戻ることなく日本勤務になった。
「アメリカ勤務の功労が認められ、役員になったんですよ。あれは本当に嬉しかった。それなりの規模の会社で40代での役員抜擢は、“よくやった”という喜びが強い。息子は大学受験のとき、サボって逃げて大失敗している。あの後悔をバネに頑張ったんだなと。そういう姿が親として嬉しい」
帰国した息子は、孫を連れて「一緒に住みたい」と言ってきた。
「向こうの家も限界だったんでしょうね。断る理由がないので“いいよ”と。一通りの話が終わると、息子は“お父さん、痩せたね”と言ってきた。70歳だから痩せもすると思いましたが、息子は病院の予約を取って、強引に連れて行く。すると、医者は胃がんで転移もある、とあっさり言うんです。いつ死んでもいいと思って生きてきましたが、実際に“がんです”と言われると、“死にたくない”と思うんです」
57歳の時に再就職し、68歳まで勤務した会社は正社員雇用ではなかったために、健康診断を受けていなかった。
「早ければ内視鏡手術ができたそうですが、開腹手術になるという。患部を切り取り、抗がん剤治療をすると。とにかく怖い。僕は痛みに弱いんです。手術も抗がん剤も怖く、治療を受けずに死を待ちたかった。息子は“お父さん、頑張って。お父さんいなくなったら、僕も息子も辛い”と泣いたんです。幼い頃みたいにボロボロ涙を流しており、これは大変だと。子育ては終わったと思っていたけれど、親業は死ぬまで続くんだなと思いました」
治療は辛く、抗がん剤の副作用の苦しみは想像以上だった。
「手術の跡は痛い。抗がん剤はとにかく苦しい。吐き気と胸焼けが怒涛のようにやってくる。コロナが続いていたから、面会ができない。一人で苦しみに耐えるのが本当に辛い。大部屋しか空いておらず、あのカーテンで仕切られた不穏な空間にいると、気持ちが滅入ってくる。あと、やっと眠れたと思ったら、“ご飯ですよ”“薬ですよ”と起こされる」
入院は2ヶ月になったが、抗がん剤治療がひと段落したところで、自宅療養にすることを医師に相談した。息子から「もっと頑張って」と言われるかと思ったが、「帰ってきてよ」と言われた。
「いろんな手続きを息子がしてくれて、家に帰ったときは、ホッとして涙が出た。多分、あの時息子も泣いていた」
その後、訪問医療を受けながら、生活をすることに。最初は筋肉が落ちていて動くこともままならなかったが、家にいれば家事が追いかけてくる。
「孫の中学受験も重なっていたから、僕が足を引っ張るわけには行かない。テーブルを拭く、廊下を掃除する、食事の支度をするなど、行動範囲を徐々に広げていった」
そんな生活が1年続き、洋治さんは日常生活を普通にこなせるようになっていった。
「その時、息子から“退院する時、余命半年って言われたんだよ”と言われたんです。それなのに、自宅での緩和ケアの道を選んでくれた。病気になったら、家族の手がなくて生活は厳しい。そんな僕に寄り添ってくれているのが、何よりの親孝行だと思いますよ」
自宅で緩和ケアや看病することは、家族に重い負担がのしかかる。それでも家族が家に迎えてくれるような生き方をし、関係を構築することが、介護人手不足の時代に必要なのだ。洋治さん自身は、妻を自宅で看取り、孫の世話をしたり、人のために働いている。息子はその恩を感じていたから、父親の希望通り、緩和ケアの道を選んだのだろう。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
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