30歳で年収1000万円になった理由
東南アジアで仕事をしていたときに貧しい家の子供たちの現実を垣間見たことで、「未来をなんとかしなくては」と思うようになったという。
「今は児童労働や売春を抑止するための世界的な意識啓発が行われ、支援団体があるけれど、当時はそんなになかったんですよ。現地にいると、ストリートチルドレン、身売りされる子供、病気になっても放っておかれる子供たちなどという、見たくもない現実を見てしまう。当時、“僕が売っている製品は、貧富の格差を広げるのではないか”と思っていたことも会社を辞める原因でした」
何も知らないから、世界を見ようと思い、バックパッカーになることを決意。その資金を稼ぐために、29歳で広告関連会社に転職する。
「半年くらい、世界を放浪しようと思ったんですよ。当時は“海外旅行は1回100万円”という感覚があった。半年だったら300万円だろうと思い、東京に戻って金を貯めることにしました。給料がいい会社に入って、1年間、脇目も振らずに働いたんです」
基本給に加え、歩合もあったので、吉則さんはひたすら広告を売りまくった。
「山手線に乗って、駅で降りてそこにある店に片っ端から飛び込み営業する。お寿司やさん、洋食屋さん、不動産屋さん……なんでもいい。そこに行って“広告を出しませんか?”と。当時は景気が良かったから、何回か通ううちに“いいよ”って出してくれて、年収は1000万円以上になりました」
1年間で履き潰した革靴は、10足を超えたという。その後、バックパッカーとして東南アジアを半年間周り、帰国する。
「太宰治の有名なフレーズに“生まれて、すみません”ってあるじゃないですか。東南アジアと深く関わり、“生きていて、すみません”という気持ちが強くなったんです。それは、僕が安全で安心な日本に生まれて、親が大学まで出してくれて、恵まれているから。そんな自分に対する罪悪感みたいなものがあり、それを償う“何か”を探す旅だったような気がします」
明確な答えは出なかったけれど、公共のために働きたいという思いが強くなった。帰国後、ある自治体職員採用試験を受けたところ合格した。
「当時31歳ですから、本来なら年齢制限もあったと思います。でも、外国人向けの新設の部署だったので、採用基準が緩かったんです。当時、バングラディッシュやイランなどの国から出稼ぎに来ている人がいて、そういう人たちのサポートをする部署でした」
吉則さんは、主に外国人を担当する部署で、雇用や就労関連、人権関連仕事などを行ない、60歳の定年を迎えた。
「30年近いの公僕生活は、自分なりによくやったと思います。公務員は試験を受けなければ管理職には基本的にならないですから。ずっと現場で働けたのも良かったです」
【「目の前の仕事」から解放されるのが定年後、本当にやりたいことができる……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。