酒量はどんどん増えていき、やがて、ガンが見つかる

妻は稼いだお金を、歌舞伎の鑑賞や友達との旅行にあてている。収入も趣味も直之さんにはない。それを考えると、冷蔵庫に行き、ビールに手が伸びた。

「カミさんが朝、外に出て行くドアのガチャって音を聞いたら、冷蔵庫に行き、プシュって。年齢とともに酒に弱くなって、半分くらいまで飲んだところで、いい感じになってくる。そして朝から缶ビール片手に近所の公園を散歩する」

歩けば酔いの回りも早い。コンビニでストロング系チューハイのロング缶2本を買い、飲みながら帰宅する。

「この時点で、12時。結構酔っているから、ベッドに入って昼寝をする。起きると辛いから、また酒を飲んで眠る。気づけは17時になって酔いが覚めて目覚める。カミさんと散歩や買い物をして、晩飯を食べて寝る。深夜に起きて酒を飲み、仮眠をしてまた起きて飲む……この繰り返し」

定年から1年、増えていく酒量に体は蝕まれていった。絶えず胸元がムカムカし、食欲がないために、体重は5キロ落ちた。

「虫歯もひどくなった。定年から1年目、鏡をみるとホームレスみたいな男が映っていたら、僕だった。“やばいな”と思っていたら、カミさんから“黙っていたけれど、あなたは飲みすぎ。このままだとアルコール依存症”と言われた。“私に迷惑をかけないで”と言われ、病院に行くことにした」

胸元が焼けるように熱いこともやり過ごせなくなっていたので、内視鏡検査を受けに行くと、食道にガンが見つかった。

「ごく早期だったので、内視鏡手術が可能だという。食道って手術が難しいらしく、医師の腕に左右されるとか。カミさんの保育園の同僚のご主人がお医者さんで、その人が太鼓判を押す、若手を紹介してもらえた」

それから1か月後に手術になり、4日間の入院の後、退院。手術前後の1か月間は、お酒を飲まなかったという。

「この時に、酒が抜けた。命がかかっていると思うと、飲む気にもなれない。ガンがわかるまで、僕はカミさんと息子からも不用品扱いされていると思っていたけれど、2人とも僕のガンにうろたえ、息子なんてお守りまで買ってきてくれた。僕は家族にとって、まだ必要なんだと思えたこともよかった」

直之さんの食道がんは、少々厄介な位置にあり、発見がもっと遅くなれば、厳しい事態になっていたと言われる。

「命拾いをして、吹っ切れた部分もあったので、暇つぶしの仕事をすることにした。それをカミさんに言うと、保育園の同僚が経営しているレストランが、人手不足だという。時給も1500円だというから、面接に行くと、その場で採用され、今すぐ働いてくれと言われた」

店は住宅街にあり半年先まで予約ができないほど人気だという。今、直之さんは15時から21時までの6時間、週5で働いている。仕事は、仕込みと食器洗い、ワインセラーの管理だ。

「オーナーシェフは50代。ここ半年間、人手が足りなくて、70代の親も借り出していたというから、三顧の礼で迎えられた。しかし、本当に飲食の仕事は大変だ。仕込みは冷たい水との戦いだし、お客さんが入れば、立ちっぱなし。でもやることがあるというのは、いい」

仕事を始めて、毎晩よく眠れているという。直之さんは、「定年後は、収入源の確保と時間潰しのスキルが何よりも大切だ」と語る。また、妻と密接に顔を合わせないのもいいという。

人生は、お金があればいいというものではない。大切なのは人との繋がりでもある。直之さんは妻によって、お金と人の“ライフライン”がもたらされた。

それは、直之さんは妻が病気の時に、寄り添っており、夫婦の関係がよかったからではないだろうか。人生はひとつの流れの中にある。そこを意識しながら“よく生きる”ことは、定年後も続いて行くのだ。

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。

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