「今日が私の命日になるってことは、ないよね」
明子さんは、若葉マークを付けた夫と共用の車で、自宅がある駅の反対側にある靖子さんの高級マンションまで迎えに行く。エントランスから出てきた靖子さんは、排気量1500㏄の国産小型車を一瞥した。
「ご主人の車がドイツ車だから、みすぼらしく見えたんでしょうね。助手席に乗ると“今日が私の命日になるってことは、ないよね”って。私もびっくりしたんですが、悪意がないことはわかるし、いちいち突っかかるのもよくないと思って、“大丈夫。これサポカーだから”といいました」
サポカーとは、衝突被害軽減ブレーキ、ペダル踏み間違い急発進抑制装置、車線逸脱警報など運転者をサポートする機能を搭載している車のことだ。明子さんの夫は、妻が免許を取得したことを記念し、安全性が高い車に買い替えた。
「靖子の夫婦関係がうまくいっていないことはうすうす感じていたんです。大人になると“親友とはいえ、踏み込んではいけない”という一線が見えるじゃないですか。だから、あえて聞かなかった。悪意なくひどいことを言う靖子に、“私は主人と支え合って生きている”ということを言いたかったのかもしれない」
最初から靖子さんは運転にダメ出しをした。「初心者の運転は路肩に寄りすぎて危なっかしい」とか「ふんわりアクセルは後続車に迷惑をかける」など。中には明らかな道路交通法違反である「黄色信号のときは、止まらないで渡るのよ」もあったという。
「車線変更でも、“あ、違う。今じゃない”などと言い、渋滞が発生すると大げさにため息をつき、私も気持ちが滅入ってしまって……それで、地元の街についたときに、“悪いけれど、ここから電車で帰ってくれない?”と靖子を降ろしたんです」
後ろも振り返らず、逃げるようにローターリーを出てから、明子さんは泣いた。なんでこんな思いをするのか。どうしてこうなったのか。なぜ私は親友を降ろしてしまったのか……。
「タイミングよく主人から電話があり、“ママ、着いた? おかひじきとミョウガがあったら買って来て”って(笑)。涙も引っ込みましたよ。主人に泣きながら話すと、“更年期とかあるのかもね。性格が変わるって言うじゃん”と。言われてみれば、確かにそうだな、と」
それ以来、靖子さんとは連絡が途絶えた。やがて別の高校の同級生と再会したときに、靖子さんが離婚したことを聞く。
「私はボーッとしていて気付かなかったのですが、靖子はもともと人を支配したがるタイプだったそうです。高校時代に私とべったりしていたのも、私がほかの誰かと付き合わないためだと。別の人から話を聞くと、いろんなことに気付いて、いちいち納得。再会してからも、私が何か習い事を始めようとしたり、別の友達を誘おうとすると反対していましたから。それを好かれているからだと思っていたのですが、実は違った」
明子さんが運転免許を取ったのは、兄夫婦が母親の免許を強引に返納させたからだ。母の生活の介助のために必要だから靖子さんの反対を気にせず、取得した。
「靖子を駅に降ろしたとき、 “兄のせいで、親友を無くした”と恨みました。でも、あれから2年近く経ってみると、免許をとっていいことだらけ。別の友達とドライブや、母との温泉旅行、主人と伊勢神宮まで交代で運転しながら行けましたし。でも、母のサポートは大変。このままだと老老介護になるねと言っていますが、あまり先のことは考えないようにしています」
超高齢化社会に突入していることは日々報道されている。人口のボリュームゾーンである、第1次ベビーブーム(1947〈昭和22〉年から1949〈昭和24〉年生まれ)の団塊の世代が後期高齢者になり、第2次ベビーブーム(1971〈昭和46〉~1974〈昭和49〉年生まれ)の世代も50代だ。この世代もあと10年ほどで定年退職になる。高齢者が圧倒的多数の世界で、運転免許を始めとする、社会インフラがどうなるか、免許返納も含めた社会課題は、横たわったまま解決のときを待っている。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。