男性不妊で負担をかけた妻にさらに何も言えなくなる
結婚して夫婦はすぐに子どもを求めたが2年経っても自然妊娠はかなわなかった。妻が検査に行くも不妊の原因は見つからず。そして、翔平さんに不妊の原因が見つかる。
「子どもが欲しいと意識するまでは、当然のようにできると思っていました。妊活を始めたのは20代でしたし。でも、不妊の原因は自分にあったことがわかった。男性として“未完成”だと言われたような気持ちでした。自分のせいだとわかると毎回の『ダメだった』という妻の報告のプレッシャーはとても強く感じていました。いつも謝ってばかりでしたね」
無精子症の手術を経て、体外受精にて妊娠に至ったのは34歳のとき。悪阻などで体調の悪い妻を必死で支えたという。
「その前に何度も体外受精にチャレンジするもダメだったこともあり、この妊娠にしがみつきたい思いでした。本格的な妊活に入ったときから家事も夫婦で分担していたので、家事は苦ではありませんでした。
私は企業の販促などを扱うデザイナーとして働いていたのですが、残業が続くこともざらにあって。どうしても家に帰りたいからと仕事を家に持ち帰らせてもらって家事をこなしていました。
コロナ禍に入って仕事を辞めることになるのですが、残業を断るようになったことで上司と折り合いが悪くなってしまったことがきっかけかもしれません」
その後、妻は無事出産。出産前後を合せて里帰り出産として5か月も妻は家に戻ってこなかった。
「私たち夫婦は都内で暮らしていて、高校の同級生なのでお互いの実家も埼玉県と近くて。私が定期的に妻の実家に通っていることもそこまで苦じゃなかったのですが、その頃から子育ての部外者にされている意識はありました。
義両親も笑顔で迎えてくれるのですが、『成長したでしょう』とか、『今日はこんなことがあって、大変だったわ』というような子育ての報告を、まるでご近所の人にしているみたいに話すのです。何度も妻にはいつ帰ってくるのかと聞いていましたが、『まだ不安なの!』と強く言われてしまっては何も言い返すことができませんでした」
3人での新生活がスタートし、外部だけでなく身内からも「子育てで父親は役に立たない」というレッテルを貼られ続ける日々が始まった。【~その2~に続きます】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。