取材・文/坂口鈴香
ヤングケアラー(介護を担う子ども)の存在が近年注目を集めているが、ノーベル賞作家、川端康成も中学生のころ祖父を介護していたヤングケアラーだった。川端の著書『十六歳の日記』(岩波書店)から、最晩年の祖父を介護する14歳(数え年16歳)の川端を見てみたい。
【前編はこちら】
「おみよ」の存在が支えに
川端を心身両面で支えるのが、「おみよ」だ。
おみよというのは、五十前後の百姓女です。毎日朝晩自分の家から通って来て、煮焚きその他の用事をしていてくれました。
(以下、引用はすべて『十六歳の日記』)
現代でいうなら、自費ヘルパーというところか。おみよは、川端が学校に行っている間に、食事の用意だけでなく排泄介助や体位交換などをしてくれているので、川端は安心して学校にも通えるし、孤独な介護に追いつめられることも少なくて済んでいる。川端自身、“学校は私の楽園である。学校は私の楽園――この言葉はこの頃の私の家庭の状態を最も適切に現わしていはしまいか。”と吐露している。現代の子ども介護者も、学校は大切な居場所であるはずだ。
おみよの言葉で救われる場面もある。
「そうでっか。二度? 十二時、三時とに起きて、
しし (筆者注・排泄介助)やってあげなはったんか。若いのに気の毒でんな。お祖父さんに恩返しすると思うてな。(中略)」
お祖父さんに恩返しすると思うて――私はこの言葉ですっかり満足した。
祖父の身体は急激に弱っていく。
「しんど。しんど。ああ、しんど(苦しい)。」と、千切れ千切れに、天に訴えるような声が吐き出される。やがて、その声が止んでまた静か。――また、
「ううん。ああ、しんど。」
短い苦しそうな声は、私が寝るまで、絶えては続き、続いては絶えていた。
さらに、夜中何度も祖父に呼ばれては起こされる。すぐに目を覚ますことができず祖父に叱られるが、寝入ったばかりでなかなか目が覚めない、とおみよに訴える。無理もない。14歳の川端に、夜中の介護はこたえるに違いない。なんとか起きているのに、祖父は無理を言う。死の不安や心細さは14歳の孫に向かう。川端にとって祖父は唯一の肉親であるのと同様、祖父にとっても唯一の家族が川端なのだ。
何人もの子や孫に先立たれ、話相手もなし、見ることも聞くこともない、(中略)全くの孤独だ。孤独の悲哀――とは祖父のことだ。
おみよは、祖父の世話をする私を気の毒に思っている。夜の八時頃、おみよが自分の家へ帰りがけに祖父に言う。
「しし 出やいたしやへんか。」
「はあ。」
「そんなら後でもう一ぺん来まっさ。」
「わしがいるから来いでもええ。」と、私は口から半分出さずにしまった。
朝、おみよが来るのを待ちかまえて、祖父は昨夜の私の不親切をくどくど告げて不足を言っていられた。私も少しは悪かったかもしれない。しかし、夜中に何度も起されると腹が立つのだ。それに、おしっこをさせるのが嫌なのだ。おみよは私に言った。
「不足ばかり言うて、自分のことばかり考えて、世話する人の身をお考えやすことはちっともないよってに、かなわん。お互いに因果とおもて(思って)世話してますのやのにな。」
川端には、話を聞いてくれるおみよの存在がどんなにか心強かったことだろう。共感して、がんばりを認めてくれる人がいるかいないかで、介護による心的負担は大きく変わってくる。
今日は大変苦しそうだ。いろいろに慰めて見ても、
「ううん、ううん。」と、返辞か喘ぎか分からないものを繰り返していられるばかりだ。せつなそうなうめき声の断続は私の頭の底まで響いて、私の命を一寸刻みに捨てて行くようにつらい。
死にゆく祖父を見つめる川端も、自らの命を削るような思いでいるのだ。そして日記の最後の日付けから8日後、祖父は亡くなる。その後川端は叔父の家に引き取られた。
その後、親戚や学寮や下宿を転々しているうちに、家とか家庭とかの観念はだんだん私の頭から追い払われ、放浪の夢ばかり見る。(中略)しかし私は祖父に対して別段やましいとは思わない。
川端は、14歳の介護者としてやれることはやり尽くした。祖父の死によって解放され、自分の人生を送ることができたのだ。そのことに深く安堵した。
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。