取材・文/ふじのあやこ
家族との関係を娘目線で振り返る本連載。幼少期、思春期を経て、親に感じていた気持ちを探ります。(~その1~はコチラ)
今回お話を伺ったのは、都内で旦那さまと子どもとの3人暮らしをしている美穂さん(仮名・41歳)。東京都生まれの大阪府育ちで、小学生の頃から、祖父母と母親との4人家族に。母親との2人きりの生活から祖父母と一緒に暮らすようになり、世間的には普通の子どもになれたと言いますが、甘えること、感情を表に出すことが苦手だったと美穂さんは振り返ります。
「母親は『自分のことは自分でする努力をしなさい』、『泣いたら何か解決に進むの?』と言ってくるような人でした。でも、嫌いではなかったです。
母と一緒に祖父母に引き取られてからは全身がムズムズするくらい子ども扱いをされました。祖母は私が近所の人から寂しそうにしていると聞いてからは絶対に家に1人にならないようにしてくれました。そんな祖母のことが好きだったけど、どう甘えたらいいのかわからなかった。祖父が亡くなったときもまったく泣けなかったんです」
早く大人になって、守られる存在から守る存在になりたかった
祖父が亡くなってから美穂さんは祖母の存在を母親よりも大切に感じていたそう。その気持ちの裏にはいなくなってしまうという恐怖心があったと言います。
「祖父が亡くなったことで死というものをすごく身近に感じていました。いつか死ぬんだろうなってぼんやりしたものではなく、絶対に人間は死ぬんだって。そして、年齢でいえば祖母が一番死に近いことも。祖母が急にいなくなるんじゃないかって夜寝るときに考えて怖さから何度も泣いたことがあります。
祖母は祖父がいなくなってからも前と変わらない様子だったんですが、たまに自分の未来についてや老いについて話すときがありました。世間話の中で十何年後にできる施設などの話になると『見れないだろう』とか、『もう前のように動くことができないからね』とか。そんな言葉を聞くたびに心臓をギュッと握られたような息苦しさと喉がツンとするんです。泣くのを必死に我慢しているときのような痛みでした」
美穂さんは高校を卒業後に実家から通える距離にある飲食店で契約社員として働き始めます。そして、夜のお店のアルバイトを掛け持ちで働きます。理由は自立するためのお金が欲しかったとのこと。
「飲食店のお給料はしれていたから、家と勤め先と真逆の距離にあるスナックで働き始めたんです。早く自立したかったし、生きている間に祖母に何かしたかった。それに高校生でアルバイトをしていたときにすでに母親がお金を貸してと言ってくることがあって、それに対する対策も兼ねて(苦笑)。お金はパチンコで勝ったときにまとめて返してくれるので借金自体は大きな額ではないんですが、拒否すると祖母にふりかかるかもしれませんから。
毎日必死で働いた甲斐もあって私の給料で3人で旅行に行ったこともあります。でも、祖母は私が22歳のときに足を悪くして寝たきりになり、誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました」
【子どもを妊娠したことで母の本音を聞いた。次ページに続きます】