取材・文/ふじのあやこ
家族との関係を娘目線で振り返る本連載。幼少期、思春期を経て、親に感じていた気持ちを探ります。(~その1~はコチラ)
今回お話を伺ったのは、大阪府内にある施設の管理スタッフとして働いている明子さん(仮名・38歳)。兵庫県出身で、両親と父方の祖母との4人家族。小さい頃から父親に支配され、唯一の味方であった祖母も小学生のときに亡くなります。自分の意見を言う場が一切なく、父親が入院したときはお見舞いに行くことが正しい行動かどうかさえわからなくなっていたと当時を振り返ります。
「当時は大学進学だけが自分の意見だと思っていました。行きたいと父親に土下座したんですから。
父親が入院したときは、祖母のお見舞いができなかったことが影響して、どれが正しい行動なのかわからなくて。自分の意見よりも、家族のルールにどっちが沿っているのかだけを気にしていました」
父親の病死後、依存先を娘に変えた母親
父親は大きな手術をしたものの、無事退院。入院の間、父親のお見舞いに行くことは一度もなかったと言います。
「私が家にいるときも母親は一緒に行こうと誘ってこなかったので、行かないほうがいいんだろうなと思って。いない間に成績が下がらないことだけに務めました。父親がいないときでも日常を変えてはいけないという思いが強かった。少しでも違った行動をすると、母親がそれを父親に伝えてしまうんじゃないかと思っていました。母親は私よりも父親の味方だと、ずっと思っていましたから」
父親はその後は一切明子さんに怒りを向けることなく、浪人が決まったときのような無視をされることもなかったと言います。たまに食卓で普通に会話をする関係に明子さんは戸惑ったそう。
「入院で毒素を抜かれたのか、会話で大学の話を聞いてくるけど、それに対しての父親の怒りはありませんでした。父親は腸の病気だとは聞かされていたんですが、実は大腸がんで……。大腸がんだったことを転移で再入院するまで知りませんでした。家で普通の会話を交わしているときはもう私にかまっていられなかったんでしょうね」
父親が亡くなったのは、その4年後。何度も繰り返す転移で父親は弱っていき、母親はそんな父親を必死で支えていたとか。
「最後は緩和ケアに入っていたので、覚悟を決める期間はありました。私は、悲しいという気持ちよりも、これから母親とどう暮らしていけばいいのかという不安でいっぱいでした。父親が亡くなった後、母親はふさぎ込む日もあれば、振りきれたように元気に振る舞う日もあって、以前は温厚な人だったのに感情のブレが激しくて、少し怖かったです。
そして、母親は私に依存してくるようになりました。私は当時社会人で実家から通っていたんですが、父親が亡くなった後から母親は何度も私に『このまま家にいるのよね』と確認してきたり、今まで一度もなかったのに2人でどこかに行こうと誘ってくることが多くなりました。私はそれに最初は無理してでも応じていたんですが、今まで感じたことのないイライラを母親にぶつけるようになってしまって……」
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