文/小坂眞吾(小学館プロデューサー・前『サライ』編集長)

志ん生の長男に生まれたばっかりに

結婚相手や友だちは選べても、自分の親を選ぶことはできません。どんな親のもとに生まれるか――いくら運命は変えられると言っても、こればかりは変えようがない。落語家の十代目金原亭馬生(1928~82)も、父親に大きく人生を左右されました。

父は五代目古今亭志ん生。天衣無縫の語り口と破天荒な生き方が語り継がれる、昭和落語のレジェンドです。しかし、馬生が生まれた昭和3年前後は笹塚の借家で、家賃も払えない貧乏のどん底。馬生を取り上げた産婆さんに払うお金もない。わずかな銭で鯛焼きを買い「尾頭付きです」と産婆さんに差し出したとか。

そんな逸話はいくらもありますが、迷惑なのは長男に生まれた馬生です。志ん生はその後、速記やSPレコードでようやく売れ始めますが、時代は世界恐慌から日中戦争へ。暮らしは楽になりません。画家になりたかった馬生も、父の勧めで入門して昭和18年、15歳で初高座。戦争に若手を取られた落語界で、貴重な新入りとしてこき使われました。のちに東横落語会のマクラで「長らく落語界の最底辺におりまして」と語っています。

父不在の落語界で孤立無援

それでも、父がいるうちはまだよかった。昭和20年5月、志ん生は家族を置いて満州(現・中国東北部)に渡ってしまいます。演芸慰問団の一員で、三遊亭圓生らといっしょでした。渡満の理由を本人は「向こうに行けば酒が飲める」と語っていますが、3月に東京は大空襲に見舞われてますから、空襲が怖かったというのが本音かもしれません。いずれにせよ自己本位、家族のことを考えていないのは同じです。もちろん、志ん生らしいと言えばそれまでですが・・・。

残された馬生は塗炭の苦しみ。母、ふたりの姉、幼い弟(のちの志ん朝)を抱えて、一家の生計がのしかかる。寄席でB29の爆音を聞きながら落語をしたり、紋付袴でグラマンに追いかけられたり。終戦後も志ん生は音信不通で、外地で死んだと思われていました。馬生は「親の七光」と冷遇され、寄席の出番も減らされ、守ってくれる人もありませんでした。

「志ん生の長男」の次は「志ん朝の兄」

志ん生と談笑する馬生。仲の良い親子に見えるが、馬生は後年「親父は貧乏じゃなかった、家族が貧乏を強いられたんだ」と語っている。 写真提供/美濃部由紀子

昭和22年1月、志ん生は突然帰国し、すぐに寄席に復帰。大喝采で迎えられます。空前の寄席ブーム、民放ラジオ開局による落語ブームに乗って快進撃を続けますが、馬生には別の苦しみが生じます。何をやっても父と比べられ、「馬生は固い」「面白くない」と言われるのです。小さんが復員、圓生も帰国した戦後の落語界は、桂文楽・志ん生を筆頭に名人揃い。馬生は当時を振り返り「壺の底から上を見上げているようでつらかった」と述べています。

昭和36年暮れ、人気絶頂の志ん生が脳出血で倒れます。しかし入れ替わるように時代の寵児となったのは、馬生ではなく、弟の志ん朝でした。以降、志ん朝がテレビに演劇にと活動の場を広げたのに対し、馬生はマスコミを避け、高座の芸を磨くことに集中します。芸談さえほとんど残さず、ひたすら高座に懸けたのです。世間における馬生の肩書きは「志ん生の息子」から「志ん朝の兄」となり、志ん朝の知名度が上がるにつれて、馬生は相対的に「地味な落語家」と認識されていきます。そして昭和57年、54歳の若さでこの世を去りました。

音源が広く聴かれなければ、正当な評価も得られない

馬生は録音にも積極的ではありませんでした。高座は一期一会、あとに残すものではない――そんな美学もあって、馬生音源の商品化は多くありません。志ん生の音源のほとんどが商品化され、志ん朝も近年CDボックスが続々発売されているのと対照的です。CDや配信で音源が氾濫する現代、没後の落語家の評価には、流通する音源の数が大きく影響します。志ん生・志ん朝と馬生の評価の差は、没後にさらに広がったのです。

それでは、馬生は本当に「地味な落語家」なのでしょうか。ホール落語の名門・東横落語会(昭和31年~60年)に、馬生は昭和43年から亡くなる57年までレギュラー出演しています。通算で190席近くを演じ、私が確認できただけで105席が音源として残っています。そのうち過去に商品化されたのは9席にすぎません。

この105席を私は毎日、何度も繰り返し聴きました。延べ100時間以上費やした計算になりますが、折からのコロナ禍。外出自粛で時間はたっぷりあります。そして聴き込むほどに、馬生の本領をひしひしと感じるようになりました。幸運だったのは、馬生が東横で、同じ演目を複数回演じていたことです。聴き比べることで、馬生落語の「深化」がわかるのです。

東横音源が雄弁に物語る、馬生の創意と推敲

たとえば『真景累ヶ淵~豊志賀』。三遊亭圓朝がこしらえた長編の中でも最も有名な怪談のひとつですが、昭和44年(41歳)と52年(49歳)の口演を比べると、52年のほうには原作にない夕顔のエピソードが入っています。豊志賀の叶わぬ想いを夕顔の花に託す。『豊志賀』を怪談ではなく、生身の女性の悲劇と解釈したのでしょう。短いせりふで、夕顔の花にクローズアップしたエンディングが胸に迫ります。志ん朝とも圓生ともまったく違う、馬生ならではの『豊志賀』の誕生です。

滑稽噺でも、独自の工夫をふんだんに聴くことができます。たとえば『垂乳根』。まず本編だけで27分と異例の長さ。しかも「言葉遣いが丁寧すぎる嫁」を描く後半より、前半の大家と八五郎のかけあいに主眼が置かれます。突然の縁談に「(相手は)女ですか?」と訊き返したり、「今晩足入れ(仮祝言)しよう」と言う大家に「足だけ? せめてもう少し上まで」と助平な声で混ぜ返したり、八五郎の発するクスグリ(ギャグ)がてんこ盛り。下記リンクでその一端をお聴きください。

■金原亭馬生 東横落語会音源『垂乳根』より「八五郎の縁談」

馬生は最晩年まで、こうした工夫と推敲を繰り返していました。それは、志ん生の天衣無縫でもなく、志ん朝の名調子でもない、自分にしか歩けない道を切り拓いてきた証しです。

〈いじめられようが蹴落されようが、一人でじぃっと耐えて、もうひたすら稽古して、自分で自分を育てていくしかないのです〉旺国社『金原亭馬生集成』より

この言葉に私は、馬生の矜恃を強く感じます。そして東横落語会の音源こそ、馬生の無言の努力の結晶なのです。

CD20枚に50席、初出し46席。馬生は令和によみがえる

来春、東横に残された105席から50席を厳選してCD20枚に収録し、CDブックとして小学館から発売する運びとなりました。これだけ大規模な馬生音源の集成は、過去に例がありません。滑稽噺から人情噺まで、『忠僕孝助』や『大坂屋花鳥』などの珍しい演目も含めて、いずれもが一級品。「いぶし銀」といった従来のイメージに収まりきらない、緻密かつ奔放な馬生の芸が、ここにあります。このCDブックをきっかけに、「志ん生の長男」でも「志ん朝の兄」でもなく、馬生が馬生として正当に評価されることを願いつつ、ただいま編集作業の真っ最中です。

CDブックの詳細はこちらへ
■『十代目金原亭馬生 東横落語会 CDブック』(2021年3月15日発売予定)
https://www.shogakukan.co.jp/pr/basho/

 

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