【サライ・インタビュー】
長谷井由紀子さん(「はとバス」ガイド)
――乗客数延べ15万人。育てた後進ガイドは1500人――
「どんなに急な乗務でも、お客さまを見ればスイッチが入ってガイドできます」
※この記事は『サライ』本誌2020年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/太田真三)
──はとバスのガイドをされています。
「今は『懐かしの昭和浪漫紀行』という定期観光コースのガイドとして東京案内をさせていただいています。朝9時20分に東京駅丸の内南口を出発して、靖国神社のご参拝と遊就館のなかをご見学いただき、それから皇居前広場で降車。二重橋と楠木正成公の銅像をご覧いただきまして、楠公レストハウスで江戸時代の食文化を再現した行楽重でお昼を摂ります。その後は、国会議事堂─迎賓館─赤坂御用地の脇を通り、乃木大将がお住まいだったお宅の前から六本木、飯倉へと進み東京タワーへ。タワーの展望をお楽しみいただいて、15時20分に東京駅へ戻ってまいります。ゆっくりご見学いただける行程なんですよ。はとバスに、私が乗務するのは月に一度です。この4月で、喜寿になりました」
──喜寿で現役ガイドは他に知りません。
「じつは、私も一度はガイドをやめ、会社も退職していました。でも、平成21年から現役ガイドに復帰させていただいたんです。
きっかけは、はとバス60周年の記念コースとして『感謝オーライ・バースデイ号』を出すことになったので“ガイドで乗らないか”という連絡をいただきましてね。それが今と同じ形の、現役と往年のガイドがタッグを組み、二人三脚で東京をご案内するという趣向でした。そこから私のガイド魂に火がつきまして、そのまま現在の“昭和浪漫紀行”にまでつながってきているわけです」
──声に張りがあって、言葉が明瞭です。
「お客さまには歳を隠さず、はっきり言うんです。そうすると、“ガイドさん、よく何でも憶えていますね。次々と言葉が出てくるのはどうしてですか”って感心されます。昔から長く、はとバスでご案内をしてきましたので、“おはようございます”の一言で、ぴっとスイッチが入って、レコードが回るようにどんどん言葉が出てくるんです。そう言うと、みなさん笑ってくださるんですけどね」
──なぜ、はとバスに入社されたのですか。
「私は小さい頃から、おてんばな子で、中学・高校の6年間はバレーボールをやっていました。身体を動かすことが好きでしたから、事務職は合わないと思っていたんです。
高校3年の修学旅行で九州・長崎へ行ったんですが、そのときのバスガイドさんが、髪をポニーテールに結った、とっても素敵な方でした。その印象があまりに鮮烈で、私もバスガイドになりたいと思って、先生に相談をしたら、新日本観光って会社を薦めてくれたんです。“卒業生も行っているので、試験を受けてみたら”って。その会社の愛称が“はとバス”というのは後で知りました。
一次試験は筆記と実技があって、競争率は10倍以上だったんじゃないかしら」
──実技はどういう試験ですか。
「吉井勇の詩を朗読してから、あとは歌をうたうんです。私は大好きだった島倉千代子の歌をうたいました。二次試験は、面接と健康診断。規定には、身長は150cm以上、メガネは駄目とかって条件が書いてありましたけど、無事に合格をいたしました。今はメガネをかけていますが、これは老眼のせい」(笑)
──初乗務の日を憶えていますか。
「研修を終えた昭和37年4月21日。東京半日コースが、私の初乗務でした。最初はみんなガイドの教本を丸暗記して憶えるんです。ですから、途中でお客さまから何か話かけられると、丸暗記のテープが途切れちゃう(笑)。でも、そのときは説明を間違えたとか、言葉が出てこなくて困ったということは記憶にありません。ただ、運転士さんから“左右がだいぶ違ってたよ”と後で注意されました。
私たちガイドは、お客さまに向かってご案内をしてますから、右と左が逆なんです。私の右手が、お客さまからみれば左になる。ですから、私は右手をあげながら“左に見えますのは”って言わなくちゃいけない。その左右がだいぶ違っていたらしいんです」(笑)
──ガイドにはすぐ慣れましたか。
「ガイドの仕事って、4年は辛抱です。朝は早いし、夜は遅い。間違えれば、運転士さんから叱られ、お客さまからは文句を言われるでしょう。コースの道案内を憶えなきゃならないですから、夜も眠れない。休みがあっても休めない。4年間は、みんな、そうです」
「新勝寺ではお客さまをおぶって御本堂へお連れしました」
──新人ガイドも4年辛抱すればいい。
「そう、4年目の後半から5年になると、不思議と仕事が楽しくなるんです。同じコースも3度担当すると、頭のなかに入ります。最初はおっかなびっくり。“虎の巻”なんて言葉がはやりましたけど、そういうのを持って乗車するんです。それでも、しどろもどろの説明になってしまったり。ですが、2度目になると走ってる道に慣れて、だんだんわかってくる。3度目になると、話がちゃんと出てくるものなんですよ。ですから、“ガイドは4年やると、こんなに楽しい仕事はないと思えるわよ”って、若い子には言うんです」
──失敗はなかったのですか。
「いっぺんだけ、泣いたことがあります。東北方面のガイドの研修を受けて帰り、2泊3日の仕事が入ったんです。東北は初めてなので、嫌がって誰も行く人がいない。“じゃあ、私が泣いてくるわ”と言って乗務したんですが、緊張のあまり憶えたことが飛んで、頭のなかが真っ白。“ひどいガイド!”とか“バス代返せ”とか言われて、お客さまの前では泣きませんが、休憩所で悔し涙を流してました。会社に帰ったら、運転士さんが“ひどいガイドだった、お客からは文句を言われるし、参ったよ”って吹聴したんです。他の運転士もガイドもみんな知っていましたから」
──やめたくなりませんでしたか。
「逆に“よーし‼”と思いましたよ。それからすぐ一所懸命に自分で東北のノートをつくって猛勉強をしたんです。当時は夏の仙台七夕まつりに6~7台のバスを出していたときでしたから、“私を乗せてください”って直訴しました。松島から瑞巌寺、鹽竈神社、蔵王温泉なども廻る2泊3日の旅です。蔵王温泉に着いたとき、運転士さんが“君のことは聞いていたよ、どんなガイドをするか、ひやひやだったけれど、よく勉強したな、ありがとう”って褒めてくれたのが嬉しくて。以来、東北は自信をもって行けるようになりました」
──忘れられない、いい思い出は。
「昭和43年でしたか、今の成田山新勝寺の御本堂の落慶大法要が1か月続いていたときに、四国の高松からのお客さまをご案内したんです。でも、おひとりだけ、バスを降りない方がいらした。高齢の男の方で、足が弱いので、みんなに迷惑をかけるから行かないと。大柄な方ではなかったし、私も若くて体力には自信があったので“御本堂までお連れします”って。その方をおぶって石段を上り、帰りもまたおぶって、ふらふらしながらやっとバスに戻ったんですよ。あのときは、疲労がすごくてバスが発車しても手のふるえがとまらない。マイクを持てないほどでした」
──バスガイドの鑑です。
「後日、私がおぶった高松の方から会社宛てに荷物が届きましてね、開けてみたらお礼のブラウスが入っていました。かえって、もったいなくて、なかなか着れませんでした。
修学旅行の生徒さんをご案内する機会も多くて。男子校の場合は、いちばん後ろの席に座る子は、やんちゃな子です。彼を引き込んでリードをすると、すごく協力的に、他の生徒をまとめてくれます。見学の途中であちこち行ったりする子がいますが、やんちゃな子が“何やってんだ!”って、出発時間に遅れないように呼び戻してくれるんです」(笑)
──後年はガイドの教育係をされました。
「私が35歳頃ですが、社内のガイド教習所への異動の打診がありました。それまでもガイドをしながら、研修生の教育を受け持ってはいたんですが、それを専門に担当してくれないかと言われましてね。でも、大好きなガイド職を降りるのは、どうしても気が進まず、お断りしたんですが、結局、私を含めて4人がガイド教習所に移ったんです」
「仕事じゃない老人会の旅行でもガイドを買って出ています」
──現場のガイドはできなくなった。
「忙しい観光シーズンは乗れるかなと思っていたんですけど、機会はなしでした。それでも、ガイドに駆り出されたことが何度かあったんですよ。乗車予定のガイドが、いろいろな事情から休んでしまう。それが前の日とか急な場合は、会社も困って、ガイド教習所へ私を探しに来るんです。“いた! 明日、北東北のガイドを頼むよ”とかって。それが京都であれ、東北であれ、バスに乗ってお客さまの顔を見ればスイッチが入って、ガイドはできますからね。急でも何でも嬉しかったですよ。“いた!”って言われるのが」(笑)
──はとバスをおやめになったのは。
「55歳でやめました。じつは40代の後半頃からは、父の介護をしながらの勤務だったんです。父が亡くなり、今度は母が倒れて、都合8年間、ヘルパーさんに助けてもらいながら仕事をしていました。平成9年に母が亡くなってから、近くの老人介護施設へ週末ボランティアに行き始めたんです。寝たきりの親を看ていましたから、少しでも人の力になれたらと思いましてね。でも、会社の仕事で行けないことがある。そうすると、施設の方が“みんな待っていたのに、先週はどうして来てくれなかったの?”って。入所者の方が、私が行くのを楽しみに待っていてくれることがわかったんです。はとバスは後輩が育っているし、私を必要としている介護施設で働くほうがいいんじゃないか。そう1年悩んで考え、ヘルパーの資格を正式にとって、平成10年に会社をやめる決断をしました」
──介護の仕事は大変ですよね。
「いいえ、楽しいですよ。ガイド時代の経験から、ご利用者の心理をつかみ、すぐ仲良くなれますから。靴下をはかせるときでも何でも、相手の身になってやらないと駄目なんですが、“右足”と言いながら左足にはかせてしまうヘルパーさんもいます。その右左は、ガイド経験豊富な私は間違えません(笑)。
お世話をする方の出身地を聞けば、土地の名所や名産・名物の話で盛り上がれます。みなさんの好きな昭和歌謡なら何百曲も私の中に入っていますから。こちらから根掘り葉掘り聞いて干渉することはしませんが、向こうから声がかかれば、すぐ動きます。絶対にNOは言いません。看護師さんからは“あなたは話しかける声がとっても優しいわね”って言われてました。私、自分で言うのは何ですが、すごく人気があったんですよ(笑)。
ヘルパー職を17年続けて、離れたのは3年前です。自分がヘルパーを必要とする年齢ですからね。はとバスも月2回とか乗っていたんですが、今は体力的なことも考えて、月1回の乗務にさせていただいてます」
──普段は何をされていますか。
「この川口市(埼玉県)へは、横浜で両親を看取ってから20年前に越してきました。毎朝6時半から荒川の河川敷でやっているラジオ体操に参加しています。それから月1回の健康講座を受講すること、あとは老人会のバス旅行があります。日帰りとか、たまに泊まりで。ガイドなしのバス旅行ですが、そのときは私がガイドを買って出ています。仕事じゃないので報酬はいただきません(笑)。
うちは子供がいなくて、主人とふたりだけです。主人は私と7つ違いで84歳。先に逝くのは主人のほうだと、私は決めてますのでね。自分はどこかの老人福祉施設に入って、そこで私みたいな気の利いた優しいヘルパーさんに看取っていただくのがいいですね。最後に何食べたいって聞かれたら“白菜のお漬物”って言います。もう大好きなんですよ」
長谷井由紀子(はせい・ゆきこ) 昭和18年、神奈川県生まれ。同37年、高校卒業後、新日本観光(現・「はとバス」)に入社。観光バスのガイドとして全国各地を廻る。35歳頃からガイド教習所に異動し、専もつぱら後進の育成に努める。平成10年、はとバスを退社。老人介護のヘルパーの資格をとって転職、74歳まで携わる。平成21年、はとバス60周年の記念事業を機にガイド職に復帰。今も現役として乗務する。
「はとバス」コースの問い合わせは、電話:03・3761・1100(はとバス予約センター)へ。
※この記事は『サライ』本誌2020年6月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/太田真三