今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「旅はどんなに私に生々としたもの、自由なもの、まことなものを与えたであろうか。旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった」
--田山花袋
田山花袋は島崎藤村とともに、日本自然主義の屋台骨を支えた作家であった。その名を、彼の代表作『蒲団』とともに記憶している人も多いだろう。30代半ばの妻子ある身でありながら、若き女弟子に抱いた恋情。これを赤裸に綴った一種の告白小説である。
女弟子が去ったあと、彼女の残していった蒲団の襟に顔をうずめて主人公が泣く場面は、切なくも衝撃的で、当時の文壇にセンセーションを巻き起こした。以降、小説家として『田舎教師』『生』『百代』などの作品を生み出していく。
そんな田山花袋は、紀行文の名手としても鳴らしていた。日本全国津々浦々を歩き、『温泉めぐり』『東京近郊 一日の行楽』など58編にも及ぶ紀行的作品をまとめている。
掲出のことばは、随筆『東京の三十年』の中に綴られたもの。旅好きの花袋に似合いのことばで、読む者をも旅に誘う爽快な力強さを感じさせる。
だが、その前に書かれている次の一文も見逃してはならない。
「いろいろな懊悩、いろいろな煩悶、そういうものに囚(とら)えられると、私はいつもそれを振切って旅へ出た」
愚直なほど創作や恋に迷い、なお文士たる者の気概を貫こうとした花袋。彼の残した紀行文は、人生の苦みを底に沈めた上澄みのようなものでもあったのかもしれない。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。