はじめに-遠藤直経とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する遠藤直経(えんどう・なおつね、演:伊礼彼方)は、浅井長政(あざい・ながまさ、演:中島歩)に仕えた武将として語られる人物です。特に有名なのは、元亀元年(1570)の姉川の戦いで敗色濃厚な中、なお織田信長(演:小栗旬)の本陣へ迫ろうとしたという壮絶な逸話でしょう。
ただ、直経については、残された史料は多くありません。だからこそ、後世では信長に迫ったエピソードから「豪傑」「荒くれ者」として強く印象づけられてきました。
この記事では、遠藤直経をめぐる史実と伝承の両方を踏まえながら、その人物像を辿ります。
『豊臣兄弟!』では、長政が信長と同盟を結んだことを快く思っていない人物として描かれます。

遠藤直経が生きた時代
遠藤直経が生きた16世紀後半は、織田信長が勢力を急速に広げ、各地の戦国大名との対立を深めていった時代です。近江(現在の滋賀県)では、北近江を支配する浅井氏が信長と同盟を結んだのち、越前(現在の福井県北部)の朝倉氏との旧縁を重んじて離反しました。
その結果、元亀元年(1570)には、織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が激突する「姉川の戦い」が起こります。これは信長にとっても、以後の長い抗争の出発点となる重要な合戦となりました。
遠藤直経は、まさにこの大きな転換点で命を落とした武将の一人です。
遠藤直経の生涯と主な出来事
遠藤直経の生没年は不詳です。限られた資料から、その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
浅井長政に仕えた侍大将
遠藤直経は、浅井長政の臣として知られ、喜右衛門(きえもん)の名でも伝わります。
直経というと豪胆な武将のイメージが先に立ちますが、地元では別の顔も伝えられています。
姉川の戦いの前年、永禄12年(1569)に、戦勝と自身の武運を祈って多賀大社に「紙本著色三十六歌仙絵(六曲屏風)」を寄進したという話です。こちらは現存しており、県指定文化財となっています。
こうしたエピソードから、直経はただ荒々しいだけの武将ではなく、和歌や歌仙の世界にも価値を見いだす感覚を持っていたことが伝わってきます。戦国武将の中には、豪勇と風雅をあわせ持つ者が少なくありませんが、直経もまたそうした一人だったと考えられるでしょう。

姉川の戦い|浅井方の前線で奮戦
元亀元年(1570)6月28日、姉川河原で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突します。
浅井方は約8千、朝倉方は約1万とも1万5千ともいわれ、織田・徳川方も大軍を動員した大規模な合戦でした。緒戦では浅井・朝倉方が優勢だったとされますが、やがて形勢は逆転し、浅井・朝倉方は敗走します。
この戦いで真柄直隆、前波新八、弓削六郎左衛門らとともに、侍大将であった直経も討死したといわれています。

信長本陣へ迫ったという壮絶な逸話
遠藤直経を語るとき、後世の軍記や伝承で特に印象的に描かれるのが、「信長を討とうとして敵陣深くに入り込んだ」という話です。
『絵本太閤記』(1797~1802刊)によると、姉川の戦いで浅井軍が敗れた際、直経は首一つ持って、信長と刺し違えようと織田方の陣に入り込んだといいます。ところが竹中久作(竹中半兵衛の弟)に見破られ、持っていた首を信長に投げつけ、竹中と組み合った末に討たれたそうです。
ただし、この場面は後世の軍記・伝承によって強く印象づけられた可能性があります。とはいえ、「敗走の中でもなお信長を狙った武将」として直経が記憶されていたこと自体、彼の豪胆さをよく示しているといえるでしょう。
まとめ
遠藤直経は、史料の上では浅井長政の臣、そして姉川の戦いで討死した武将として姿を見せます。
けれど後世の伝承は、その最期をただの戦死では終わらせませんでした。敗色の中でも信長を狙って敵陣へ踏み込み、見破られてもなお食い下がった… こうした話が伝わるのは、直経という人物が「最後まで引かなかった武将」として記憶されたからでしょう。
そうした豪傑さと並んで、歌仙絵屏風を寄進したという横顔も伝わっています。荒々しさと奥ゆかしさ、その両方をあわせ持つ人物として見ると、遠藤直経は戦国北近江の空気をよく映した武将だったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『デジタル大辞泉』(小学館)











