江戸城中での刃傷事件
天明4年(1784)3月24日、江戸城内において、政言は若年寄・田沼意知に斬りかかり、重傷を負わせます。
意知は傷が癒えずに命を落とし、政言は即日揚座敷に押し込められたのち、4月3日に切腹を命じられました。享年28歳。政言の墓は浅草の徳本寺にあります。

「世直し大明神」と称えられる
当時、江戸では米価が下落し、経済に対する庶民の不安と田沼政権への反感が高まっていました。そのため、当時の町人たちには、政言の行動は単なる私憤ではなく、時代を変えようとした「義挙」と受け取られ、「佐野大明神」「世直し大明神」などと称えられることになるのです。
政言を称える落書や落首も多数流布し、田沼政権崩壊の一因ともなりました。
まとめ
佐野政言は、名門の家に生まれながら、権力の前に翻弄された悲劇の武士でした。個人的な怒りが時代の不満と重なったとき、政言の刃傷は「世直し」の象徴として広まっていきました。
静かに埋もれていったはずの中級武士の一生は、結果として時代の節目に鮮やかな一撃を刻んだともいえるのかもしれません。佐野政言の生涯には、個人の憤りと社会のうねりが交差する、激しい時代の空気が映し出されているかのようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
