はじめに-元木網とはどのような人物だったのか
江戸後期に狂歌界の中心人物として活躍した元木網(もとの・もくあみ)。江戸庶民の暮らしと感性に根ざした軽妙な狂歌を数多く詠み、多くの門人を育てた名狂歌師です。
妻であり同じく狂歌師として知られる智恵内子(ちえの・ないし)とともに「落栗庵」を拠点に活動し、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」と称されるほどの人気を博しました。
そんな元木網ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、大田南畝(おおた・なんぽ)らとともに活躍した狂歌師(演:ジェームス小野田)として描かれます。

目次
はじめに-元木網とはどのような人物だったのか
元木網が生きた時代
元木網の生涯と主な出来事
まとめ
元木網が生きた時代
元木網が生まれたのは享保9年(1724)、江戸中期のこと。徳川吉宗の享保の改革を経て、社会が安定を取り戻し、町人文化が花開き始めた時代です。やがて明和・安永・天明と続く時代に入り、庶民の間で機知に富んだ言葉遊びや風刺が人気を集めるようになります。
特に天明年間(1781〜1789)には、江戸の狂歌文化が大きく花開き、四方赤良(よもの・あから/大田南畝)、唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう)、朱楽菅江(あけら・かんこう)らとともに、元木網は天明狂歌の黄金時代を築く一員として名を連ねることとなります。

元木網の生涯と主な出来事
元木網は享保9年(1724)に生まれ、文化8年(1811)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
湯屋の主人から狂歌師へ
元木網は武蔵国比企郡(現在の埼玉県)に生まれ、姓を金子、のちに渡辺と改めました。壮年のころ、江戸に出てからは「大野屋喜三郎」と名乗り、京橋北紺屋町で湯屋を営んだといいます。
和歌や国文学を学ぶ中で、狂歌にも親しむようになり、同好のすめ(狂名・智恵内子)と結婚。明和7年(1770)には唐衣橘洲宅での狂歌合に参加します。

【落栗庵での指導と「江戸中半分」の門人たち。次ページに続きます】
