二代目富本豊前太夫を襲名し、富本節の黄金期へ
安永6年(1777)、24歳のときに二代目富本豊前太夫を襲名します。このとき、松平不昧(治郷)より「七重八重野辺のにしきや桜草」の句を賜ったことで、それまでの鶴の丸の紋を桜草へと改めました。

また、ちょうどこの頃、地本問屋の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)が富本節の正本出版に乗り出しており、その影響もあって富本節は一気に人気を高めます。
初代豊前掾没後、しばらくの間は高弟の富本大和太夫が富本節を支えていましたが、二代目豊前太夫の登場によって、富本節は混乱期を脱し、隆盛へと踏み出したのです。

美声と技巧で富本節を確立
二代目富本豊前太夫の最大の武器は、「天性の美声と巧みな節回し」でした。彼の浄瑠璃は聴く者を魅了し、常磐津を凌駕し、富本節の黄金時代を築き上げたのです。一方で、その顔立ちから「馬面豊前」として親しまれてもいました。
晩年と富本節の衰退
文化14年(1817)、幕府から「富本豊前掾藤原敬政(ぶぜんのじょうふじわらのたかまさ)」を名乗ることが許される栄誉を与えられます。これは、浄瑠璃の世界で高い実力を認められた証でした。
しかし、文化9年(1812)に新感覚に適合した清元節が分派・独立して以降、富本節は徐々に衰退していきます。とはいえ、二代目豊前太夫が存命の間は、江戸の劇場音楽の中枢として、常磐津節と並ぶ勢力を維持していました。
その後、文政5年(1822)7月17日、焦慮のうちに69歳でこの世を去ります。
まとめ
二代目富本豊前太夫は、江戸時代後期の浄瑠璃界を代表する太夫の一人であり、富本節を最盛期へと導いた立役者でした。
彼の美声と卓越した技術は、多くの人々を魅了し、常磐津節と並ぶ勢力を持つまでに富本節を発展させました。しかし、時代の流れとともに富本節の衰退が進んでいきます。
それでも、二代目富本豊前太夫が築いた功績は、江戸の歌舞伎音楽史において決して忘れられることはありません。彼の名は、浄瑠璃の歴史に輝く存在として語り継がれていくことでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
