突然の出家と両親の悲嘆
しかし、長和元年(1012)1月16日、19歳のときに従四位下右馬頭(うまのかみ)という高位の官職を捨て、親にも告げずに一条革堂(いちじょうこうどう)の行円(ぎょうえん、皮聖とも)を訪ねて剃髪します。その足で比叡山の無動寺(むどうじ)に登り、慶命僧都(けいみょうそうず)を戒師として正式に出家しました。
この突然の決断に、父・道長や母・明子は深い悲しみに暮れたといいます。道長は子息や高位の貴族たちとともに比叡山に登り、出家した顕信に会って僧都に後事を託しました。また、近江守の藤原知章に命じて、無動寺内に顕信のための住まいを建てさせるなど、その後の生活を支援したといわれています。
修行の日々と最期
出家後、顕信は大原で厳しい修行を積み、仏道に精進。しかし、その後の万寿4年(1027)5月14日、根本中堂での参籠中に34歳で亡くなりました。
その生涯は短かったものの、貴族社会や宗教界に大きな影響を残したといえるでしょう。
まとめ
藤原顕信は、摂関家の有力者である藤原道長の子として将来を嘱望されながらも、若くして仏門に入るという異色の人生を歩みました。その決断は父や家族だけでなく、当時の貴族社会に大きな衝撃を与えました。
彼の生涯を通じて、平安時代の貴族たちが抱える内面の葛藤や、仏教への深い信仰心を垣間見ることができます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大事典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)