なぜ「藤原定子の中宮」に難色を示したのか?
A:和田英松博士の『新訂 官職要解』(講談社学術文庫)には、中宮とは「もとは広く宮門内、すなわち禁中をさしていったもので、皇后は常に禁中にいらせられたのであるから、移ってその名称になったものであろう」とあります。当初は太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(天皇の母)、皇后(天皇の妻)の総称が「中宮」ということだったようです。
I:なるほど。元は三后の総称だったんですね。
A:第60代醍醐天皇の女御藤原隠子(藤原基経の娘)が皇后になった際に「中宮職」という役所が設けられた際に初めて皇后の呼称として「中宮」が用いられたということですが、時代によって微妙に違っていたりしてややこしいことこの上ないわけです。
A:『光る君へ』第4回では、円融天皇(演・坂東巳之助)の中宮の座がふたりの女御によって争われたことが描かれました。ひとりは円融天皇との間に皇子・懐仁親王(後の一条天皇)をもうけた藤原詮子(演・吉田羊)。もうひとりは関白藤原頼忠(演・橋爪淳)の娘藤原遵子(演・中村静香)です。この時は、皇太后に昌子内親王(第63代冷泉天皇后)、皇后に藤原媓子(第64代円融天皇中宮/藤原兼通の娘)がいましたが、藤原媓子が33歳の若さで亡くなったため、空席となった中宮(皇后)の座を詮子と遵子が争い、皇子をなした詮子を差し置いて、遵子が中宮になり、詮子が落胆するという場面が描かれました。この時は空席が生じるまで待機していたわけです。
I:なるほど。
【中宮になって立后すると、今日でいう「皇族」に列することになる。次ページに続きます】