ライターI(以下I):『どうする家康』は伏見城の戦い、「小山評定」が描かれ、いよいよ天下分け目の関ヶ原の合戦に突入していく流れになっています。
編集者A(以下A):当欄本編でも言及しましたが、石田三成(演・中村七之助)が生まれたのは、桶狭間合戦があった永禄3年(1560)です。桶狭間から40年。幾多の戦乱を潜り抜けてきた家康(演・松本潤)は、石田三成との決戦にどのような思いで挑んでいたのでしょうか。
I:当欄「戦国秘史秘伝編」では2週にわたって石田三成と弘前藩との縁(えにし)について紹介してきました。
A:前週は、関ヶ原合戦で敗れた石田三成の次男石田重成が密かに弘前藩に匿われ、杉山源吾と名を改め、杉山家は弘前藩の家老職を務めたということ、さらに、弘前城内には石田重成が大坂城から持ってきた秀吉像を大切に祀っていたこと、さらに、杉山家の菩提寺には「豊臣」姓が刻まれた杉山家の墓石が残されているという話を紹介しました。
I:弘前藩のミステリーですよね。今週もその第3弾を三重大学の藤田達生教授の著書『戦国秘史秘伝』から適宜引用する形で展開します。藤田教授は、石田三成末裔の杉山家の墓石に「豊臣」姓が刻まれていることを確認したくだりに続いて、次のように書き記しています。
読者諸賢には、これぐらいで驚かれてはいけない。高台院(秀吉正室寧子)に仕えた三成の息女辰姫が、重成と同じく津軽に逃れ、二代藩主信枚の正室になったのである。
しかも、彼女は三代藩主となる信義を生んだのだ。つまり、三成の血統が弘前藩主家に伝えられたのである。
しかし、その前に天海の仲介で、徳川家康は慶長十八年に養女満天姫(家康の異父弟・松平康元の息女)を信枚に正室として押しつけていた。これによって、辰姫は側室へ降格となってしまう。
満天姫との衝突を気遣ってか、辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野大舘(群馬県太田市)に移され、大舘御前と称された。信枚は参勤交代の折にここに立ち寄ったという。元和五年(一六一九)一月、辰姫は信枚の長男信義をもうけたが、同九年にわずか三十二歳で亡くなってしまった。
ここで、これまで述べた複雑な人間関係を系図にして示したい。津軽藩は、石田三成と血縁関係のある藩主家と重臣家が支えた。しかも重臣杉山家は、豊臣姓を称していたのである。
満天姫も、元和六年(一六二〇)に信枚との間に子息(後の津軽信英)をもうけた。文武に秀でた信英は、正保四年(一六四七)に藩主候補として祭り上げられたが(正保の変)、信義から弾圧をうけて失敗した。
しかし明暦元年(一六五五)に信儀が死去すると、信英は幼少の信政の後見人として藩政に辣腕をふるった。津軽藩は、秀吉を祭り三成の血を引く藩主を、徳川の血を引く一族が支えたのである。それは寛文元年(一六六一)に藩主信政が十六歳になり、初めて国許入りするまで続いた。なお、信英の流れは後に一万石の支藩黒石藩の藩主家となった。
弘前城内に、石田三成の子息杉山重成がもたらしたという豊臣秀吉像が北の郭の南東に附属する隠し曲輪というべき場所に建立された館神内に安置安置されていることは、既にふれた通りである。しかし、弘前藩は南部氏からの自立を認めた秀吉一辺倒ではなかった。家康の養女満天(まて)姫を正室としてうけ入れたばかりか、東照宮を城内に勧請していたことも重要である。
元和三年(一六一七)春に、二代藩主津軽信牧が将軍徳川秀忠の許しを得て、弘前城本丸に東照宮を創建したのである。寛永元年(一六二四)には、城外鬼門の方角に当たる土淵川(つちふちがわ)沿いに新たに社殿を建立したが、これは昨年に黒石神社に合祀され摂社となった。
私たちは、黒石神社にうかがい、最近になって合祀された東照宮にお参りした。ここで、黒石藩初代信英から数えて十五代目にあたる津軽承公宮司とお話しすることができた。承公さんは東照宮の遷座の経緯について語られるとともに、満天姫が隣接する相殿に祀られたことにもふれられた。
信枚は、満天姫を正妻としつつ、三成の息女辰姫を寵愛したばかりか、辰姫から誕生した信義を三代藩主とした。つまり弘前藩は、女系の流れでみれば三成の血筋が藩主家となり、家康の血筋がそれを補佐する支藩黒石藩の藩主家となったのである。豊臣と德川の微妙なバランスが、江戸時代を通じて弘前・黒石両藩に貫かれたのである。
I:津軽家は石田三成の次男を匿ったばかりでなく、娘の辰姫をも迎え入れていたのですね。なんだか凄い話ですね。
A:その辰姫を正室に迎えたのが津軽為信の後継者津軽信枚(のぶひら)です。知名度はありませんが、三成の娘と家康の養女のふたりを妻に迎えた人物として歴史に名が刻まれています。
I:家康の養女として信枚に嫁いだ満天姫の前夫は、福島正則の嫡男正之なんですよね。
A:秀吉死後に家康が諸大名らと婚姻政策を進めます。家康は異父弟(母は於大の方)松平康元の満天姫を福島正之に嫁がせますが、後に福島家が改易された際に離縁、津軽家に嫁いだということですね。この時、「嫁入り道具」として持参したのが「関ヶ原合戦図屏風」ですね。「関ヶ原合戦図屏風」は複数ありますが、津軽家伝来のものは最古といわれ、現在は大阪歴史博物館が所蔵しています。
I:「関ヶ原合戦図屛風」には福島正則らの姿も描かれています。満天姫はどのような思いで屛風を見ていたのでしょうか。
A:戦国の悲劇のひとつですね。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『日本はこうしてつくられた3 徳川家康 戦国争乱と王道政治』などを担当。『信長全史』を編集した際に、採算を無視して信長、秀吉、家康を中心に戦国関連の史跡をまとめて取材した。
●ライターI:三河生まれの文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2023年2月号 徳川家康特集の取材・執筆も担当。好きな戦国史跡は「一乗谷朝倉氏遺跡」。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり