黒船来航、将軍継嗣問題が勃発
嘉永6年(1853)、江戸幕府の13代将軍となった家定。しかし、病弱だったため、老中・阿部正弘らに政務を一任していました。家定が将軍を務めていた頃は、諸外国の勢力が目前まで迫っている、非常に不安定な時代にあたります。
家定が将軍職についた同年、アメリカ海軍の軍人・ペリーを乗せた黒船が、江戸湾入り口の浦賀に来航します。「幕末」の定義は曖昧ですが、ペリー来航を幕末の始まりとする考えが主流です。それ以前にも、外国船が日本に接近したことは何度かありましたが、大きな黒船が実際に来航したことで、日本中に激震が走りました。
ペリーの開国要求に頭を悩ませていた阿部正弘は、考え抜いた末に、「日米和親条約」を締結。日本の開国政策に乗り出しました。また、徳川斉昭(なりあき、慶喜の実父で水戸藩主)や島津斉彬(なりあきら、薩摩藩主)らと手を組み、協調することになります。
正弘が雄藩大名との協調路線をとったことで、斉彬の養女・篤姫(あつひめ)が、家定の御台所(みだいどころ、将軍の妻)として迎えられました。しかし、二人の間に子どもが生まれなかったため、将軍継嗣が重大な政治問題となってしまうのです。
不安を残したまま迎えた最期
安政4年(1857)、正弘が亡くなったことで、雄藩との協調関係が崩れてしまいます。そして、家定の後継者を一橋慶喜にしようとする一橋派と、徳川慶福にしようとする南紀派に分かれて対立する、将軍継嗣問題が勃発したのです。
一橋派には、慶喜の実父・島津斉彬や越前藩主・松平慶永(よしなが、春嶽とも)がつき、南紀派には彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)らがついていました。次期将軍の座を巡って、両者の対立は激化しますが、家定が直弼を大老に任命したことで、決着がつきます。
将軍に次ぐ最高職に就くことができた直弼は、慶福(後の家茂)を強引に将軍職に就けたのです。さらに直弼は、安政5年(1858)、アメリカの総領事・ハリスとの間に「日米修好通商条約」を無断で締結。この条約は、関税自主権の否定や治外法権を認めるなど、日本にとっては不平等な条約でした。
14代将軍・家茂を強引に擁立しただけでなく、天皇の勅許を待たず、勝手に条約を締結した直弼。彼の行動は、後に幕末の激しい政争を展開させることとなります。このような不安定な情勢の中で、安政5年(1858)、幕府の行く末を案じながら、家定は35年の生涯に幕を閉じたのです。
まとめ
不安定な状況が続く中、病弱ながらも将軍職を務めた徳川家定。歴代将軍の中でも影が薄いと言われることがありますが、彼が将軍職に就いていた時には、実に様々な問題が発生していたことが分かりました。諸外国に振り回される幕府の現状に、家定は複雑な思いを抱えていたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)