朝鮮出兵で一番隊隊長となる

秀吉は朝鮮出兵に際し、行長を一番隊の隊長に任命。文禄元年(1592)4月13日には、女婿・宗義智(そう・よしとし)とともに釜山城を陥れ、5月2日には首都ソウルに到達。さらに進撃し、6月15日には平壌を陥落させました(文禄の役)。

そんな快進撃も、朝鮮国王の要請でやって来た明軍の来襲により、停滞。行長は、明との講和を画策し始めます。幾度となく行なわれた会談により、北京で明政府と和平条件を制定。しかし、その内容は、秀吉が提示していたものとは異なるものでした。

慶長元年(1596)9月2日に、行長は明国使節を伴い、大坂で秀吉に謁見。提示していた内容と違うことが明らかになり、秀吉は激昂。講和は決裂し、翌年の慶長の役へと繋がっていくのです。

この時、不思議なのが、行長が失脚しなかったことではないでしょうか? 一説には、講和にまつわる行動は、行長単独のものではなく、秀吉の意向を受けていたのではないかという考えもあるようです(山室恭子著『黄金太閤』)。

慶長2年(1597)1月13日、行長は再び先鋒として朝鮮へと出兵します。慶長3年(1598)秀吉の死後は、朝鮮から撤退しました。

関ヶ原の戦いでは、石田三成に与し敗北…

秀吉の死後、行長は石田三成に与し、加藤清正ら武断派と対立するようになります。そして、慶長5年(1600)7月、毛利輝元を総大将に、石田三成が徳川家康に対して挙兵。行長は西軍の一員として戦いましたが、東軍の寺沢広高隊に敗北。近江伊吹山中で捕縛されました。一説には、自害することはキリシタンの教義に反するため、捕らえられることを選んだとも言われています。

関ヶ原古戦場 小西行長陣跡

同年9月29日、大坂および堺の町を引き廻され、10月1日行長は三成らとともに京都六条河原で処刑されました。

行長の死後、一人息子は処刑され、宗義智の妻となっていた娘は離縁されました。小西行長の子孫は、ここに断絶したのです。

まとめ

処刑前に言い残すことを聞かれた時、行長は「たとえいい置く儀億万あり共、いま首の座に居て白状すべきや」(現代語訳:例え言い残しておきたい事柄が数え切れないほどあったとしても、処刑される前に言うことではないだろう)とこたえたそうです。この言葉から、行長の武将としての毅然とした姿勢がうかがい知れます。

一方、日本から遠く離れたイタリアのジェノバでは、行長の死後に彼を主人公とする音楽劇が作られたそうです(1607年)。また、1640年にフランスで作られた日本地図には、宇土の地名が確認できます。

これらの事象は、ヨーロッパまで小西行長の名が伝わっていたことを表しています。ヨーロッパまで伝わるほど、キリシタン大名としての信仰が篤かったのでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/京都メディアライン
HP: https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
宇土市デジタルミュージアム

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