小田原合戦で敗北、北条氏の終焉

秀吉による天下統一が進み、残すは関東と東北だけになりました。

秀吉は北条氏に対して、氏直か氏政が上洛するようたびたび催促するも、それに応じることはありませんでした。氏直の義父である家康が仲介するも、叔父の北条氏規(うじのり)を京都に派遣するにとどまります。

この時、氏直と氏政の間には溝ができていたと考えられます。成り上がり者である秀吉に対する反発から、氏政は動こうとはしませんでした。一方の氏直は、氏政を早く上洛させようと焦ります。氏直と氏政というトップが2人いたことで、組織の意思決定が定まらず、時間が無駄にすぎてしまったようです。

そうしているうちに、沼田城(群馬県)にいた北条の家臣が対岸の名胡桃(なぐるみ)城を奪ってしまうという名胡桃城事件が起きます。秀吉が既に出していた大名間の私戦を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」に反することになり、北条と秀吉の対立は決定的なものとなりました。氏直は家臣が勝手にやったことであると弁明するも、秀吉は小田原への出兵を決定します。

氏直は籠城戦で秀吉と戦うことを決めます。過去に上杉や武田の攻撃から小田原城で防いだという経験から秀吉も追い払えると過信していました。防衛体制が整えられ、米や麦など食糧は城に集められていきます。これで数か月持ちこたえれば、秀吉はあきらめて撤退するだろうという計算だったのです。

しかし、秀吉の軍事力は氏直の想像を超えるもので、22万という大軍で小田原城は陸からも海からも完全包囲されてしまいます。北条の城は小田原城と忍城を除いて次々と陥落。さらには、小田原城を見下ろせる山に一夜にして城が出現したことで、秀吉の底力に圧倒された兵士は決定的に戦意を損失してしまいます。

今の忍城。小田原合戦で豊臣軍の石田三成に水攻めされるも、最後まで持ちこたえました。「浮き城」とも呼ばれます

挙句の果てには、秀吉に内通しようとする家臣まで現れ、ついに天正18年(1590)の7月5日、小田原城は開城し、氏直は秀吉に降伏したのでした。

戦後、氏政は敗戦の責任を問われることになり、弟・氏照(うじてる)とともに、小田原城下の屋敷で切腹をさせられました。首は京都に送られ、一条戻橋にさらされることに。氏直は家康の娘婿であったことから助命され、高野山に追放される処置ですみました。氏直はその後、秀吉から赦免されて1万石を与えられて、大坂に移ります。しかし、病気によって天正19(1591)の11月に亡くなります。30歳のことでした。

氏直の死によって、北条嫡流は断絶しましたが、氏規の子の氏盛が氏直の旧領を継承します。そして、河内狭山藩主北条家初代となりました。北条家による狭山藩の統治は明治時代になるまで続くのです。

まとめ

北条氏直は的確な意思決定ができなかったことで、最後は小田原を失ってしまいました。しかし、父である氏政が引退後も強い権限を持つという仕組みであることによって、方針が定まらずに、混乱をきたしたという側面も否定できません。意思決定はその仕組みもまた大事であるということがうかがい知れるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)

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