板垣退助らと交友し、「民権ばあさん」と呼ばれるようになる
夫と子を失くして以降、喜多は立志社演説会に出入りするようになります。立志社とは、自由民権運動の指導的結社のこと。明治7年(1874)に、板垣退助、片岡健吉、林有造らが中心となって高知に結成しました。
喜多は、立志社の政談演説会には欠かさず参加し、傍聴していたといいます。板垣退助とも交友し、高知に来遊した河野広中(こうの・ひろなか)・頭山満(とうやま・みつる)・杉田定一(すぎた・ていいち)ら錚々たる自由民権家を親身に世話したそうです。喜多自身も演説をしたとも言われていますが、これは定かではありません。
こうしたことから、次第に「民権ばあさん」の愛称をうけるようになったと言われています。
県庁に抗議文を提出
明治11年(1878)、高知県区会議員選挙に投票しようとして、拒否された喜多。税金滞納戦術をとり、「女戸主として納税の義務を果たしているのに、投票権がないのは不当である。9月16日までに選挙権を与えるなら納税する」といった内容を記した「税納ノ儀ニ付御指令願ノ事」を県庁に提出し、是非を問いました。しかし認められず、その後、内務省にも意見書を提出しています。
この出来事は、婦人参政権運動において初めての実力行使となり、東京や大阪の新聞でも報道されたそうです。このことをきっかけとして、明治13年(1880)、高知市上町町議会は日本で初めて女性の選挙権・被選挙権を認めました。小高坂村がそれに続いています。しかし、明治23年(1890)に憲法が施行された後は、女性の参政権は認められなくなりました。
その後、自由民権運動は次第に下火になっていきます。以降、喜多は政治との関わりを持たなくなりました。晩年は潮江村(高知市)の要法寺に身を寄せて、念仏三昧の余生を送ったと言われています。
大正9年(1920)10月18日、85年の生涯を閉じました。
まとめ
日本で女性の参政権が認められたのは、昭和21年(1946)に行なわれた戦後最初の総選挙の時でした。喜多が行動を起こし、上町町議会で女性の選挙権・被選挙権が認められてから、実に60年以上の歳月が過ぎています。
今では当たり前のように持っている参政権ですが、その権利を得るために訴え続けた人たちがいたことを、私たちは忘れてはいけないように思います。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)