アメリカへの留学と日本への帰還
万次郎は渡米後、ホイットフィールドの養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで暮らすことになります。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、首席になるほど優秀でした。
卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後、日本に帰国することを決意しています。帰国資金調達のために万次郎はゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアに向かい、そこで資金を準備。やがて、ハワイにいた漂流仲間と合流します。そして、嘉永3年(1850)にサラ・ボイド号でホノルルから日本に向けて出航するのでした。
日本の近代化に尽力する
嘉永4年(1851)、万次郎らは鹿児島に上陸。そして、薩摩藩や長崎奉行所などで長期間の尋問を受けた後に故郷・土佐にようやく帰還することができたのです。実に12年ぶりの故郷でした。
帰国後の万次郎は重宝されることになります。まず、徒士 (かち) 格に登用されて藩士に列すことに。このころには、万次郎は名字帯刀を許されたので、出身地の中浜をとって「中浜万次郎」を名のるようになります。
嘉永6年(1853)には、幕府に招聘されて江戸へ。同時期に、ペリー来航により幕府はアメリカの情報を必要としていましたので、アメリカの情勢に通じていた万次郎は貴重な存在でした。
万次郎はペリー来航時には重用され、翻訳や通訳、造船指揮、教育などさまざまな活動に従事。また、万延元年(1860)には、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団とともに軍艦・咸臨丸(かんりんまる)の通訳・技術指導員として乗り込んでいます。咸臨丸には、艦長の勝海舟(かつ・かいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)らも乗っていました。
その後も、万次郎は小笠原諸島の調査や開成学校(現・東京大学)での指導などに携わりますが、病に倒れ引退。それ以後は静かに暮らすようになり、明治31年(1898)、71歳で万次郎はその波乱の生涯を終えました。墓所は雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)にあります。
まとめ
中浜万次郎は、類まれなる人生を送った人物ではないでしょうか。無人島での数か月に及ぶ遭難生活やアメリカでの生活、資金を蓄えた上での帰郷など、頭の良さもさることながら、生きることへのたくましさをも感じさせられました。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)