最近、身の回りで起こっている事件や出来事を見聞きしますと「日本も、ずいぶん物騒になったものだ」と思うことが多くなっています。

そうした事件の中には、「人の言動」が契機となっている事件が少なくないようです。そして、その中には「どうして、そんな些細なことが……」と理解に苦しむような原因が大事件に発展した事例も見受けられます。

何故、些細なことが大事件となるのでしょうか? それは、現代人の許容能力や忍耐力が徐々に低下してきていることに原因があるのでは? と思ったりもします。

かく言う私自身も、何故か常にイライラし、何かに追われているように慌ただしく生きていることに気付きます。そうした生活では、ついつい、ゆとりや優しさを失い、口にする言葉も刺々しいものになりがちです。

そんな時には、今回の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の言葉「言葉は心の表れなれば、大人たる者の慎むへき第一なり」が、効能となるのではないでしょうか?

柳沢吉保の人生

柳沢吉保は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉 (つなよし)の寵臣 (ちょうしん)でした。延宝3年(1675)綱吉の小姓となり、延宝8年(1680)には幕臣に加えられ、小納戸(こなんど、将軍身辺の雑事を担当)となります。その後、頻繁に昇進・加増を受け、元々は小禄の身でしたが、従来は徳川一門にしか与えられたことがない甲斐(かい)国(現在の山梨県)15万石の大名へと異例の出世を遂げました。

しかしながら、宝永6年(1709)綱吉が死去し、その甥・徳川家宣(いえのぶ)が6代将軍に就任すると、吉保は隠居。その後、正徳4年(1714)に駒込の別荘六義園(りくぎえん)で死去しました。

六義園

異数の栄進は、綱吉の異常なまでの寵愛によるものであったため、「綱吉の威を借りて権勢を振るった悪辣な策謀家」というイメージがあるかもしれません。しかしながら、実際には気まぐれな将軍であった綱吉の意に、誠実に従い奉仕した側近であったようです。

藩主としては、施政に心を砕き、領民に慕われていたといいます。また、綱吉の好学に迎合し、儒者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)や細井広沢(ほそいこうたく)ら優れた学者の知識を活用して、元禄時代の文治政治の推進を行ないました。

そして吉保自身、北村季吟 (きたむらきぎん) につき古今伝授を受け、詩歌のたしなみもあったといいます。

そんな吉保は、寵臣ゆえに言動には細心の注意を払う慎み深い人物であったと言えます。今回ご紹介した言葉は、彼の姿勢を示しているものだと言えるでしょう。

肖像画/もぱ
文・構成・アニメーション・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

HP:https://kyotomedialine.com Facebook

 

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