祖母政子の死後に増える『吾妻鏡』の記事

『吾妻鏡』に竹御所の動静に関する記事が増えるのは政子が嘉禄元年(1225)7月に亡くなってからだ。

(嘉禄二年六月二十日 ) 前年に亡くなった政子の喪明け。竹御所がお祓いの儀式をしたという記事。

(同年七月十一日) 政子の一周忌法要が勝長寿院で行なわれたという記事。時房、泰時と並んで竹御所も参列した旨が記録される。

(同年十月十八日) 竹御所の御所新築の工事始めがあったという記事。同日には、泰時の息子で京都六波羅にいた時氏が「愛子」と命名した中国の鳥を将軍藤原頼経に献じた記事もある。

(同年十二月十日) 竹御所が新築の御所に引っ越ししたという記事。

この竹御所が十三歳に成長した四代目鎌倉殿藤原頼経と結婚したのが、寛喜二年十二月。竹御所は二十八歳で頼経よりも十五歳も年長だった。『吾妻鏡』には、頼経の結婚について、北条泰時によって突然決められたと記される。竹御所が頼経の御所に入ったのが亥の刻(午後十時)だったというからなんとも慌ただしい婚姻だった。竹御所の供には、義時の息子である政村、有時兄弟や結城朝光らの御家人が列し、ここでも時房、泰時がしっかりと竹御所の後見役のように、御所で竹御所の到着を待っていたという。

義時や政子がこの世を去り、幕政は執権泰時とその叔父で連署を務める時房が取り仕切っていた。5年前に亡くなった政子の意向もあっただろうが、頼朝の血を引く竹御所と頼経が結ばれることで、頼朝の血筋を残そうという思惑があったとみられる。

懐妊した竹御所が男子を死産して……

夫婦となった頼経と竹御所は、勝長寿院での仏事や頼経の方違えの際などは牛車に同乗するなど、仲睦まじい関係を築いた。結婚4年後の天福二御所懐妊。着帯の儀が行なわれたことも『吾妻鏡』に記録されるなど、鎌倉は期待感に包まれた。

7月26日子の刻(23時~1時)に竹御所は産気づき、御産所の北条時房邸に移動する。安達義景、三浦資村(義村の子)など鳴弦の役(魔除けの儀式担当)十名もやってきた。しかし、難産だったのか、翌27日の寅の刻(4時~6時)に死産。竹御所も辰の刻(7時~9時)に亡くなってしまう。32歳。竹御所の死で頼朝と政子の流れは完全に絶えたことになる。

竹御所の葬儀などは義時の孫で元服したばかりの実時(父は実泰)が取り仕切ったという。

※『ビジュアル版逆説の日本史3  中世編』は武士の始まりから応仁の乱まで、豊富なカラー図版などで歴史を振り返る一冊。

構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり

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