元同宮教学研究所所長の加藤健司さん(中央)と『サライ』で「半島をゆく」を連載していた作家の安部龍太郎さん(右)と藤田達生三重大学教授(左)。

建保7年(1219)1月27日。源氏の氏神を祀り、鎌倉の武士たちの心のよりどころでもあった鶴岡八幡宮で、現役の征夷大将軍源実朝が甥の公暁(頼家の子)に暗殺されるという前代未聞の事件が勃発した。

『吾妻鏡』には、当日の朝に実朝が詠んだ和歌が、あたかも辞世の句であるかのように記載されている。

〈出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな〉
 (歌意:主がこの館にいなくなっても、軒の端の梅よ、春を忘れずに咲くのだぞ)

なぜ、若き鎌倉殿源実朝は甥公暁に殺されることになったのか? そもそもなぜ公暁は鶴岡八幡宮の別当になっていたのか? 事件の舞台となった鶴岡八幡宮について、元同宮教学研究所所長の加藤健司さんに話を聞いた。

「鶴岡八幡宮に参拝されたことのある方はご存知かと思いますが、鳥居をくぐると左右に源平池と呼ばれる池があり、夏には蓮の花が咲き乱れます。神社なのに蓮と思われるかもしれませんが、もともと鶴岡八幡宮は神仏混交の時代には鶴岡八幡宮寺、つまり宮寺でした。20から25もの僧坊がある巨大寺院だったのです」

鶴岡八幡宮の前身となる由比宮は、康平6年(1063)に源頼義が由比ガ浜に「潜かに」(私的に)石清水八幡宮より八幡神を勧請して創建。その後、頼朝が治承4年(1180)に祖宗を崇めるために現在地に遷座させ、箱根から呼び寄せた専光坊良暹を別当として祀らせた。

「別当というのは、八幡宮寺に奉仕する供僧のトップです。その後、建久2年(1191)に鎌倉の町が大火に見舞われ僧坊などが焼失したため、社殿などを整備し直します。その際に、正式に石清水八幡宮から八幡神を勧請し、頼朝の従兄弟にあたる円暁を初代別当として据えたのです。つまりそれまでは源氏が私的に勧請したお社に過ぎなかったわけです」

建保元年(1213)、実朝の兄で2代将軍だった頼家の遺児公暁は4代目の八幡宮寺別当に就任している。

「実朝の時代は、敵や御家人たちを淘汰してきた武力による政治から恤民政策、民衆の安寧のための政治にシフトしていく時代でした。そこで奔走したのが義時であり、次の泰時なわけですが、幕府体制が固まりつつある中、源氏の頂としての実朝は若さもあり非常に難しい立ち位置だったと思います」

そこで実朝が迎えたのが、甥である公暁だったのではないかと、加藤さんはいう。

「2代目、3代目別当は源氏の血筋というわけではなかったのですが、実朝はおそらく父頼朝に倣って源氏の血を受け継ぐものを別当職にあてて、鎌倉幕府と八幡宮寺の一体化をより強固なものにしようとしたのかもしれませんね」

それにしても、頼家の遺児を鎌倉に迎えることが危険という認識はなかったのだろうか。

「当初は危険とは思っていなかったんだと思いますよ。実朝はやはり良家の育ちなので、これをすると危ないとかいったことがピンとこない人だったのかもしれません。そして、〈一所懸命〉を本分とする鎌倉の御家人の気持ちをイマイチわかっていなかった。だから、朝廷との結びつきを大事にしてしまった。御家人たちからしたら、自分たちの土地とその土地に住む人々こそ大事。せっかく距離を置いた朝廷の好きなようにされたらかなわないわけです」

承久の乱で鎌倉が勝てたのは、この〈一所懸命〉の精神があったからで、精神的に官軍よりも強かったはずだと、加藤さんはいう。

公暁の別当就任で「聖俗一体の」源氏支配を目指した

源頼朝の鎌倉入府から実朝暗殺の事件まで39年の年月が流れていた。

その間、鶴岡八幡宮では御家人たちによる音曲の宴などもたびたび催され、文治2年(1186)には源義経の愛妾静御前が、舞殿(現在のものとは異なる)で白拍子の舞を舞ったことでも知られている。

加藤前所長がいう。

「鶴岡八幡宮寺は源氏の祖宗の社として始まりましたが、併せて、幕府にとって、一種の朝廷の代理機関のような役割も担っていたのではないかと思います。だから、位を授かるとかいった儀式の時には大倉御所ではなく、鶴岡八幡宮寺で行なっていました」

加藤さんの話を伺って、なるほどと膝を打つことがある。

当欄でもこれまで何度か触れた通り、鶴岡八幡宮へと続く「段葛」は、寿永元年(1182)に嫡男頼家を懐妊中の政子の安産祈願のため頼朝が整備した参道だ。『吾妻鏡』には「曲横」(曲がりくねった道)を直して一直線に整備したことが記されている。

一般的に神社では、参道は本殿に直接向かないように敷かれる。神に対して直面することは不敬として、あえてずらされていることが多いのだ。ところが、鶴岡八幡宮の表参道にあたる段葛(若宮大路)は本殿に真っすぐ向かうように整備されている。これは、京都の御所の正面から延びる朱雀大路にも似た構造だ。そうした意味で、源氏の血を引く公暁を別当として呼び寄せ、聖俗(政治)一体化をより強固にしようとしたというのも、うなずける。

「源氏の氏神ではありますが、鎌倉に住む御家人たちにとっても、鶴岡八幡宮は精神的なよりどころだったと思います。実朝の死後も、火事などがあってもすぐさま修繕されていますからね。鎌倉武士にとっては無くてはならない聖域であり機関だったのだと思います」

公暁が隠れていたという大銀杏の謎。次ページに続きます

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