北条氏の陰謀により、戦死する
しかし、重忠の最期は悲劇的です。頼朝の死後、幕府の実権を独占しようとする北条氏によって有力御家人が次々と謀殺されていくなかで、重忠もその例に漏れず標的とされてしまいます。
元久元年(1204)11月、ある宴会で重忠の嫡男・重保(しげやす)と平賀朝雅(ひらがともまさ)とが口論となりました。朝雅は北条時政の後妻・牧の方の女婿であり、それを知った北条時政は武蔵国への進出という企図とともに、畠山父子の誅殺を決意します。
元久2年(1205)年6月22日、「鎌倉に異変あり」の報を受け、急ぎ手勢130余騎を引き連れて武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)に到着した重忠は、待ち受ける数万の敵に接し、すべてが謀略であることを知ります。そこで幕府の大軍と激戦ののち、矢に当たって、重忠は討ちとられました。
北条時政はこの討伐にあたって、他の御家人らに「重忠が謀反を企てている」という疑いを広めていました。それに対し、重忠は逃げも隠れもせず、潔く死の決戦に臨むことで、自らの無実を証明し、後世に名を残したのでした。年として42歳のことでした。
多方面から語られるその人物像
武士としての強さのみならず、重忠は歌舞音曲の才にも恵まれていたことが知られています。文治2年(1186)4月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞をみせた際に、重忠が銅拍子(どびょうし=打楽器の一種)をうったとされています。さらに建久3年(1192)9月、鎌倉永福寺庭池の大石を一人で持ち運んで据えつけるなど、大力であったといわれています。
こうした多方面にわたる記述から、重忠の人物像をうかがい知ることができます。温厚で知られる彼の性格も含めて、多くの御家人らから支持される姿が想像されます。
まとめ
後世には「鎌倉武士の鑑」とまで讃えられるようになった畠山重忠。忠義を尽くし誠実であり続けた彼の性格は、その功績以上に、私たちの胸を打つものだといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)