栄達した渋沢栄一の引きで惇忠も出世

尾高惇忠は、若くして尊王攘夷に目覚め、将来を担う若者たちを感化するために教育者となった。その教え子のなかから、新たな時代を担う渋沢栄一が巣立っていったことになる。

同じころ、本州の西の端に位置する長州藩の萩城下で、惇忠と同じく尊王攘夷の熱に突き動かされて、若者たちに体当たりの教育を施していた人物がいた。松下村塾の吉田松陰がその人だ。松陰は文政13年生まれ。奇しくも尾高惇忠と同い年だ。

松下村塾では、明治維新を成し遂げ、明治政府の屋台骨を築いた多くの俊秀が育った。しかし、彼らの師である松陰は、教育者としてよりも革命家としての自分を貫こうとして、29歳にして命を散らした。

一方、尾高惇忠は、一足早く一橋家に仕え、徳川慶喜の家臣=幕臣となっていた栄一の紹介で、京都の慶喜のもとに招かれることになっていたが、その直前に鳥羽伏見の戦いが勃発。

従兄弟で幼馴染の渋沢喜作(演・高良健吾)とともに、新政府への抵抗を続ける彰義隊に参加するが、やがて離脱。新たに振武軍という組織を結成するが、新政府軍との戦いに敗れて郷里に戻った。

その後は、栄一の友人でもあった民部省の玉乃世履(たまのよふみ)という人物の引きで民部省に出仕。さらに先んじて官界での出世を果たしていた栄一の求めに応じて、富岡製糸場の初代場長として活躍。のちには、大蔵省を辞して第一国立銀行の頭取となった栄一の依頼を受けて、盛岡支店の支配人を務めてもいる。

かつての教え子のおかげで職を得たことになるが、旧幕臣出身で中央政界に確固たる人脈を持たなかった当時の栄一にとって、その才能を信頼し、気心がしれた惇忠は非常に心強い味方だったのだろう。

吉田松陰ほど有名にはならなかったが、惇忠は20世紀の声を聞いた明治34年(1901)年に70年の生涯を平穏のうちに全うした。

ちなみに、惇忠のひ孫で同じ名前を持つ尾高惇忠氏は、現代音楽の作曲家・東京芸術大学の名誉教授として活躍したが、残念ながら『青天を衝け』放送開始の二日後、今年の2月16日に76歳で病没した。

尾高惇忠が初代工場長を務めた富岡製糸場(2015年撮影)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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