「金納システム」が発達した経済先進地

おそらくドラマに登場することはないだろうが、この信宝は渋沢より一歳上の天保10年(1839)生まれで、わずか3歳で藩主の座についた。まだ少年時代、砲術家の高島秋帆が幕府の咎めを受け罪人として岡部藩に預けられたが、信宝は洋式兵学の必要性を感じていたため、ひそかに秋帆を厚遇して西洋砲術を学び、藩の軍事組織刷新を進めたというから、かなり英邁な人物だったのだろう。のちに孝明天皇の妹和宮が公武合体を推し進めるために将軍家茂に輿入れするとき、その警護にあたった。

幕末の動乱を目前に控えた文久3年(1863)年に、風雲急を告げる京都二条城勤務を命じられたが、まもなく病を得てわずか25歳で亡くなってしまった

渋沢の生まれ故郷の「殿様」は、このようにユニークな人物であったが、残念ながら渋沢との接点はまったくなかったようで、『青天を衝け』でも出番はないだろう。

岡部藩領の土地は、あまり水田には適していなかったため、畑地が中心で養蚕も盛んだった。現在でも、血洗島付近には特産の深谷ネギの畑が広がっている。渋沢家も、染め物の原料である藍玉の製造・販売を中心に財をなした半農・半商の豪農だった。

そのため、岡部藩では税は米で納めるというオーソドックスな方法ではなく、江戸時代もかなり早い段階から銭で納める「金納」のシステムが確立していた。渋沢が誕生したころには、貨幣経済が浸透した先進地帯だったのだ。

渋沢は、のちにパリ万博に派遣されて西欧文明に触れた。そして、その経験をもとに日本に西洋文明や資本主義のシステムを導入したとされている。もちろんそれは間違いではないが、すでに少年時代から、岡部藩領・血洗島村という先進的な土地で、貨幣経済や商品取引を身近に感じていたという事実も見逃すことはできない。

そういう渋沢だからこそ、誰よりも早く、資本主義経済を日本に「翻訳」し、広めることができたのだろう。

岡部藩陣屋跡への案内板。(写真提供/深谷市)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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