古くは奈良時代からおこなわれていた日本酒を温める飲み方「燗」。
この“加温”という一手間にこそ、酒の旨さを引き出す理由があった。
科学的根拠を知れば、燗酒がよりおいしく楽しめそうだ。
温度の変化によって左右される人の味覚
世界広しといえども、酒を加温し飲用する風土の国は珍しい。燗酒は日本の文化であり、はじまりは奈良時代と古く、平安時代に貴族社会で広がった。民衆に普及していったのは江戸時代と考えられている。
江戸時代の儒学者・貝原益軒は『養生訓』の中で、「酒は夏月も温めるべし。冷飲は脾胃をやぶる。冬月も熱飲すべからず。気を上せ、血液をへらす」として、季節を問わず、熱すぎず冷たすぎない温燗の日本酒の効用を説いた。ことわざにも「酒は燗、肴は刺身、酌は髱」など、燗酒が庶民の日常と寄り添い、今に受け継がれたことがわかる。
そんな身近な燗酒の味わいは、科学的な視点から見ると、実に多用性がある。東京農業大学応用生物科学部醸造科学科・酒類生産科学研究室の佐藤和夫教授はこう語る。
「日本酒に熱を加えるとアルコールや香り成分など、揮発性の高い成分の蒸発がおこるため、香りの変化は強く表れます。日本酒には、酵母が作る香りや米が作る香りなどがあり、香りは味わいのひとつ。温度が高くなればなるほど、蒸発量は増え、香りをより感じることになります。吟醸酒などの香り高い日本酒は、加温が高いと香りが立ち過ぎ、味とのバランスが崩れて飲みにくくなるため、ぬる燗以下の温度をすすめます。酒を長期間寝かせておくと老香とも呼ばれる熟成香が出てきますが、あまり熱くない燗にすると穏やかになり飲みやすい。これも燗の効用です」
日本酒温度の定義と特徴
温度によって香りが左右されることは、日本酒温度の定義と特徴(上部表参照)を見ると納得できる。
「ここが最も重要なのですが、人の味覚は温度による影響を多分に受けるということです。甘味は温度が高くなると強く感じる傾向にあります。味覚は、甘味・酸味・塩辛味・苦味・旨味の“五元味”が基本味です。日本酒は、原料に塩を使わないので塩辛味はないのですが、そのかわりに“渋味”というのが入ってきます。苦味と渋味は温度が上がることで味の強さは抑えられ、酸味はほとんど変化しません。すなわち、燗をつけることで甘味は際立ち、苦味や渋味の感覚は弱くなり飲みやすくなる。これこそが燗酒の旨さの最大の特徴なのです。例えば、甘口の日本酒を熱燗にするとベトベトで甘ったるく飲みづらいとよく聞きます。また辛口の純米酒などは、ぬる燗以上の燗酒にすることで甘味が立ち、ちょうど良い頃合いになる。このように燗をつけることでより飲みやすく、さらに旨く感じる酒を“燗上がり”といいます」
味覚の変化、冷める速度を鑑みるとぬる燗、上燗が最適
「どんなにいい温度の燗をつけても杯についだ直後から酒の温度は下がります。これは物理的に仕様がないことで、温度が高いほど下がり具合も大きくなりますから、熱燗はなるだけ一気に飲まないとまずくなります。つまり、温度が低い燗のほうが慌てて飲まなくてよいことになります。また酒器の大きさや形でも冷めにくさが違ってきます。おいしい燗酒を飲むためには飲むタイミングに合わせて温度と、サービスのスピードを変える必要も生じるんです。昔の料亭には、お燗番といって、燗専門の人がいましたが、それは燗の温度管理とともにこのような気配りをする必要があったためでしょう」
では、家で上手に燗をつける秘策はあるのだろうか。
「湯煎が一番と思います。前述のとおり、時間をかけて燗をつけると、それだけアルコールや香りが蒸発しやすくなります。水から日本酒を温めるよりはやはり湯煎。まずは燗をする前に一度、日本酒を舐めてください。日本酒そのもののタイプをまず見分け判断し、自分好みの適当な温度を選ぶのが良いつけ方ではないでしょうか。温度の違いによる味わいの差を探求してください。日本酒はなんといっても奥深いですから」
日本酒の味わいマップ
吟醸酒は米をよく磨き、香りを強くした酒。本醸造酒は一部、醸造用アルコール添加をした酒。純米酒は原料が米と水のみ、味が濃い。
味覚強度は温度により変化する
加温によって人が感知する味の強さの違いをグラフ化。甘味、苦味、塩辛味は変化に富むが、酸味は温度の影響を受けないようだ。
江戸時代の燗つけ器
銚釐や燗器。錫や銅といった熱伝導率のよい金属を用いるのは、昔も今も変わらない。炭火で燗をつける携帯用もあったようだ(写真中央)。
取材・文/前田亜季 撮影/小倉雄一郎