日本全国には大小1500の酒蔵があるといわれています。しかも、ひとつの酒蔵で醸(かも)すお酒は種類がいくつもあるので、自分好みの銘柄に巡り会うのは至難のわざです。
そこで、「美味しいお酒のある生活」を提唱し、感動と発見のあるお酒の飲み方を提案している大阪・高槻市の酒販店『白菊屋』店長・藤本一路さんに、各地の蔵元を訪ね歩いて出会った有名無名の日本酒の中から、季節に合ったおすすめの1本を選んでもらいました。
【今宵の一献】吉村秀雄商店『車坂 魚に合う吟醸酒』
ビール、ワイン、ウィスキー、紹興酒など世界に数多(あまた)あるお酒のなかでも、生の魚介類と抜群に相性がいいといえるのは、やはり日本酒です。ピンポイントでは例外も多々あるでしょうが、総じて魚介と日本酒は、その双方の良さを引き立て合うものと言って間違いありません。
そんな日本酒の世界において、あえて「魚に合う吟醸酒」と銘打った逸品を、今宵は紹介したいと思います。
和歌山県岩出市の「吉村秀雄商店」は大正4年(1915)の創業から4代百年余の歴史を持つ酒蔵です。社名に冠された初代・吉村秀雄が、江戸の昔からの銘醸地「灘」の酒蔵に奉公した後、郷里に戻って自ら造り酒屋を興したのが始まりです。
創業の精神は、修行時代に知って感銘を受けたという漢詩の七言絶句「両人對酌山花開」(りょうにんたいしゃくしてさんかひらく)――中国は唐代の詩人で、自らを“酒仙”と称したほどに酒好きだった李白(701~762)が詠んだ詩文の句で、気の合う友と酒を酌み交わすのは、山の花が咲き乱れるように愉しい、というほどの意味合いです。
「どんな時代でも、誰もがお酒を飲める幸せを感じられるように」というのが、創業から今の4代目当主の安村勝彦(やすむら・かつひこ)さんへと変わらず受け継がれてきた酒造りの姿勢だとお聞きしました。
仕込み水は和歌山の一級水系本流・紀ノ川の伏流水です。今、主要銘柄は「日本城」「鉄砲隊」「車坂」などですが、さて――。
和歌山県岩出市は、真言宗十八本山の一つ「根来寺(ねごろじ)」で有名な土地柄です。空海以来の学僧と評判をとった覚鑁(かくばん)が大治5年(1130)に高野山内に建てた一堂に淵源を発する寺で、戦国期には、織田信長・豊臣秀吉に対して僧兵たちが鉄砲隊を組織、近在の雑賀衆の鉄砲隊と連携して、激しく抵抗した歴史が広く知られています。
吉村秀雄商店のお酒のひとつ「鉄砲隊」のネーミングの裏には、そんな歴史の背景が重ねられてもいます。
今宵の酒の主役は『車坂 魚に合う吟醸酒』ですが――「車坂」というのは、かの小栗判官(おぐりはんがん)が死者再生の聖域・熊野へと向かう際に通ったという謂われをもつ坂の名です。古くは中世の説教節に発して、古浄瑠璃や歌舞伎の演目にもなっている小栗判官と照手姫(てるてひめ)の死と再生の物語に由来します。
件の酒『車坂』の味わいについては「上り坂を歩むような力強さのなかにも、後味は下り坂を駆け下りるような軽快な爽快感を目指した」といいます。
事実、軽やかですが、しっかり味わえるお酒です。
酒づくりの職人集団を統率する最高責任者を「杜氏(とじ)」と呼びますが、今、吉村秀雄商店の酒造りを担っているのは藤田晶子(ふじた・あきこ)さん、30代の若き女性杜氏です。
東京農大醸造学科を卒業後、藤田さんが師事したのは、日本酒の世界に関わる人なら知らない者はいない農口尚彦(のぐち・なおひこ)さん。石川県の銘酒『菊姫』の名を世に広く知らしめた“能登四天王”の一人に挙げられる名杜氏です。
能登杜氏の故郷は、能登半島の突端に位置する石川県珠洲(すず)市。海岸沿いに丘陵が続く、奥能登の地は耕地が少ないうえに、冬は深い雪に埋もれる辺境の地でもあったところです。江戸も中期、珠洲の男たちは、秋の収穫もそこそこに、遠く近江方面まで出稼ぎに行くのが常だったといいます。その大半の行き先が造り酒屋の“百日働き”で、それが後に「能登杜氏」の名で呼ばれる酒造りのプロ集団を形成していったのです。
ちなみに、富山『満寿泉』の三盃幸一(さんばい・こういち)さん、石川『天狗舞』の中三郎(なか・さぶろう)さん、静岡『開運』の波瀬正吉(はせ・しょうきち)さんが、農口尚彦さんと共に“能登四天王”とうたわれてきた名杜氏の面々です。
農口さんのもとで10年の修行の後、藤田晶子さんが、ここ吉村秀雄商店に杜氏として迎えられたのは3年前のことです。
先日、吉村秀雄商店を訪ねた折り、藤田晶子さんにいろいろお尋ねしてみました。聞けば、藤田さんが就任すると同時に、酒蔵の心臓部である麹室(こうじむろ)、そして”山廃仕込み”を行うための「酛場(もとば)=酒母室(しゅぼしつ)」を新設。洗い場も手直しをしたそうです。
見せていただいた麹室は、コンパクトで使い勝手の良さそうな4つの部屋に別れていて、素晴らしい出来映えでした。藤田さん自身の設計になるものだそうです。昨年夏には酒米を蒸す「甑(こしき)」と、蒸米(むしまい)の荒熱をとる放冷機も入れ替えを行い、地下の貯蔵庫は従来の大きなタンクを取り外し、瓶貯蔵を主体とするように改良したといいます。加えて、この夏に向けては酒の貯蔵用の冷蔵庫をさらに増設中だそうです。
地方の酒蔵としては大きな設備投資です。言い換えれば、蔵元としても自社の命運を女性杜氏の感性と技に託す、その意気込みが見てとれます。
藤田さんは、今年の秋から4年目の造りの時期を迎えます。
能登杜氏の流儀を汲むとなれば、藤田杜氏は“旨みのしっかりしたコクのあるお酒”づくりが得意かと私は承知しておりますが――藤田杜氏の就任以前から、この蔵元が力を入れてきたという「魚に合う吟醸酒」というコンセプトに、彼女はどう向き合ったのでしょうか。
以前、藤田杜氏が親しい蔵元さんと金沢の地で鮨を一緒に食べた折のことです。目の前に出てきたお酒は、その蔵元さんが持ち込んだきわめて個性的な「山廃純米」。瞬間、〈あ、鮨には合わないだろう〉と思ったにもかかわらず、予想を裏切って凄くよく合っていたといいます。そのときの嬉しい驚きが藤田さん流の「魚に合う吟醸酒」に取り組むヒントになっているそうです。
「魚の旨みに合うような、米の綺麗な旨みをしっかり出しつつ、少し高めの酸で切れ味のいいお酒をイメージして造りに取り組んでいます」
『車坂 魚に合う吟醸酒』は、昨年までは酒米はすべて山田錦でしたが、今は麹米(こうじまい)に山田錦、醪(もろみ)の発酵が進むなかで加える掛米(かけまい)に美山錦を使っています。米の糖分をアルコールに変える酵母も従来の9号とは違う性質の14号酵母に変えています。結果、藤田さんが目指す味わいの酒に、より近づいたと自負していらっしゃいます。
そして今回、日本料理『堂島雪花菜』の間瀬達郎さんが『車坂 魚に合う吟醸酒』に合わせて用意してくれた肴は「テーブルクイーンと夏野菜・サザエの肝和え」です。
あまり聞きなれないテーブルクイーンは、カボチャの一種。白に近い薄緑色をした皮ごと食べられる小さなカボチャです。塩蒸しにした、そのテーブルクイーンの中に軽く炙ったパプリカとゴーヤ、酒煎りしたサザエが入っています。サザエの肝は白味噌・玉ねぎ・太白胡麻油・醤油でクセのないソース状に仕上げていますので、全体にからめて食べると、ちょうどよい塩梅(あんばい)になります。
『車坂 魚に合う吟醸酒』の通年ものは一度熱処理をして販売されていますが、今回紹介しているのは季節限定の生酒です。
その点を間瀬さんは意識してのことでしょうか。少し青々とした爽やかさを感じたようで、何か瓜系の食材も使いたいと思ったんだそうです。
“魚に合う”というお酒の触れ込みを知って、あえて魚料理にしないところに、いささか偏屈ともいえそうな料理人としてのいい意味での矜持をみた思いがします。もとより、しっかりと計算された味わいで、お酒を口にすると、テーブルクイーンのほくほくした優しい味わいが引き立ち、サザエのほのかな磯風味ともほどよくマッチします。
私としても『魚に合う吟醸酒』は、魚以外の食材にも幅広く合う、ということがわかりましたので、そのコストパフォーマンスの良さも手伝って、家庭で愉しむのに重宝するお酒だと思います。
『車坂 魚に合う吟醸酒』のラベルには、紀州・和歌山の川や海で釣れる春夏秋冬それぞれの魚の名前が書かれています。この魚は和歌山ではこの時期に獲れるとか、漢字ではこう書く魚なのかとか、ラベルを酒肴代わりに見ながら一献かたむけるも、よし――。
なお、蔵元がお勧めの件の魚介は、トロ刺身、まぐろの漬け、白子ポン酢、カツオたたき、アサリの酒蒸し、などです。ぜひお試しください。
文/藤本一路(ふじもと・いちろ)
酒販店『白菊屋』(大阪高槻市)取締役店長。日本酒・本格焼酎を軸にワインからベルギービールまでを厳選吟味。飲食店にはお酒のメニューのみならず、食材・器・インテリアまでの相談に応じて情報提供を行なっている。
■白菊屋
住所/大阪府高槻市柳川町2-3-2
TEL/072-696-0739
営業時間/9時~20時
定休日/水曜
http://shiragikuya.com/
間瀬達郎(ませ・たつろう)
大阪『堂島雪花菜』店主。高級料亭や東京・銀座の寿司店での修業を経て独立。開店10周年を迎えた『堂島雪花菜』は、自慢の料理と吟味したお酒が愉しめる店として評判が高い。
■堂島雪花菜(どうじまきらず)
住所/大阪市北区堂島3-2-8
TEL/06-6450-0203
営業時間/11時30分~14時、17時30分~22時
定休日/日曜
アクセス/地下鉄四ツ橋線西梅田駅から徒歩約7分
構成/佐藤俊一