『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。
文/藤田達生(三重大学教授)
泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず
※上喜撰/じょうきせん。上等なお茶、蒸気船と掛ける
あまりに有名な狂歌である。
嘉永6年(1853)6月3日、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は、大統領フィルモアの親書を携えて浦賀湾に停泊した。同月9日、幕府側が指定した久里浜(神奈川県横須賀市)に護衛を引き連れ上陸し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。
狂歌で読まれた来航した黒船4隻のうち、蒸気船は2隻のみ。しかも、外輪で航行するのは、離着岸の時に限定され、普段の航海は帆走である。しかし、黒船の来航に度肝を潰した幕末の日本人は、なんとかして洋式帆船を自らの手で建造しようとした。それを実現したのが、浦賀の地だった。
おなじみの「半島をゆく」スタッフのみなさんと浦賀駅前で合流すると、昨年秋に訪問した房総半島を遠望しつつ、また眼下に浦賀湾を眺めながら、丘の上の浦賀コミュニティーセンター分館に向かった。
ここは、浦賀ドックの迎賓館「表倶楽部」の跡地に建設された施設で、浦賀郷土資料館が併設されている。センター前で横須賀開国史研究会会長の山本詔一さんと対面し、早速、2階の展示コーナーにうかがい、ペリー来航時代の浦賀に接する。
当地は、浦賀奉行所を中心とした大港町だった。代官所の模型や町のジオラマなどから往時の賑わいを想像することができた。中世以来、良港として広く知られており、戦国時代には北条氏の水軍基地があったといわれ、対岸の安房里見氏としばしば干戈(かんか)を交えている(房総半島編を参照されたい)。天正18年(1590)に北条氏が豊臣秀吉によって制圧されると、浦賀は徳川家康の領地となった。
浦賀が干鰯の商いを独占
鎖国が始まる直前の一時期、浦賀はスペインと結ぶ貿易港となっていた。家康の外交顧問・三浦按針ことイギリス人ウィリアム・アダムスが、当地(現在の横須賀市逸見)に領地をもったのも、スペイン貿易との関係からと言われている。
享保5年(1720)に下田から浦賀へ移されて以来、浦賀奉行所は「海の関所」として、船改めをはじめ、海難救助や地方(ぢかた)役所としての任務を果たしている。あわせて、幕末期にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から、江戸を防備するための海防の最前線基地でもあった。ちょうど、2020年に浦賀奉行所発足300周年の歴史的な節目を迎えるということで、様々なイベントが企画されているそうだ。
山本さんからは、江戸時代の三浦半島では鰯が大量に獲れており、地場産業として干鰯(ほしか)と呼ばれる鰯を干した肥料を生産していたこともうかがった。上方(関西地方)で栽培される綿花の肥料として使用されるようになると、浦賀を中継基地として干鰯が上方方面に出荷されるようになったそうだ。
なんと、一時期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになったという。当地は、主産地の上総・安房に近い良港だったから、寛永19年(1643)には干鰯問屋が幕府の公認を受けている。東浦賀には、天正年間から干鰯市が立ったといわれ、廻船問屋として財を成す者もおり、大変賑わったと山本さんは仰った。
箱館戦争まで従軍した中島三郎助
私たちは、コミュニティーセンターを出て徒歩で丘を降り、浦賀ドック跡を見学をさせていただいた。浦賀駅から巨大な建物とクレーンが見えていたから、私はここが大変気になっていた。
見学したのは、一世紀以上にわたって艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地である。レンガ造りのドライドックを見られるのは、国内で唯一ここだけという。2003年に閉鎖されるまで、帆船の日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船や護衛艦など様々な船がこの造船所で建造されたそうだ。
この造船所は、もと浦賀船渠株式会社である。その建設については、中島三郎助抜きには語れない。中島については、浦賀郷土資料館で詳しい説明があった。嘉永6年6月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦サスケハナ号に乗船した奉行所与力である。その後、奉行戸田氏栄らに代わり、同僚の香山栄左衛門とともにアメリカの使者に対面している。
ペリーの帰国後、浦賀奉行所では老中阿部正弘に宛てた意見書で軍艦の建造を主張した。それは受け入れられ、中島を中心に香山栄左衛門ら浦賀奉行所の与力・同心を担当者として、地元船大工棟梁の粕屋勘左衛門の協力のもとで進められた。
嘉永6年9月19日に浦賀造船所で起工され、翌年5月10日に竣工したというから、建造期間8か月間という驚異的な速さだった。そのおかげで、他の造船所で進んでいた軍艦を抜いて、鳳凰丸が日本で最初に竣工した洋式軍艦となった。
もっとも、正確には牡鹿半島編で解説したサン・フアン・バウティスタ号が、国内最初と言わねばならないだろう。これは、慶長18年(1613)に仙台藩主伊達政宗の命令で、スペイン人提督セバスティアン・ビスカイノの指導により、地元大工たちが建造したとされる大型洋式船である。支倉常長ら慶長遣欧使節が、太平洋横断に利用した。
それにしても、江戸時代の日本人が独力で洋式軍艦を造船したのだから、ものづくり技術の高さには驚嘆せざるをえない。ペリーも、日本人の潜在的な能力に気づき、将来は技術立国になる可能性を指摘している(『ペリー艦隊日本遠征記』)。
後に、洋式軍艦とは性能的に雲泥の差があったと勝海舟が証言しているが、これをきっかけにより性能の高い国産軍艦が開発されたのだから、やはり高く評価せねばならないだろう。
中島は、安政2年(1855)に、江戸幕府が設けた長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術などを学んでいる。安政5年には、築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、安政6年には、浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設した。これが、浦賀造船所だった。
慶応4年(1868)正月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁・榎本武揚らとともに、蝦夷地に渡海し箱館戦争を戦った。箱館政権(蝦夷共和国)のもとでは、箱館奉行並、砲兵頭並を務めたが、明治2年(1869)5月16日に千代ヶ岡台場(五稜郭から南西約1.5キロメートル)を死地と定めて子息たちとともに戦死した。享年は49。一生を幕臣として全うしたのであった。
明治24年の中島三郎助23回忌にあたり、浦賀の旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑(現存)が建てられ、その除幕式の席で、かつて函館戦争のときの同志だった荒井郁之助(海軍奉行)が、浦賀に造船所を建設するこを提案した。榎本武揚がそれに賛同して地元の有力者に働きかけ、明治29年になって浦賀造船所跡地に浦賀船渠株式会社が創設されたのである。
私たちは、中島らが与力を務めた浦賀奉行所の発掘現場をお邪魔した。ここは、湾から少し奥まった場所に立地する。旧浦賀工場の寮などが建っていたらしいが、すべて撤去されており、だだっ広い空き地になっていた。瓦をはじめとする出土遺物の解説を受け、敷地が当初のものを後ろに広げたことを教わった。往時はここに、1人ないし2人の奉行のもと、与力10騎、同心50人の役人たちが詰めていたのである。
安政5年に日米修好通商条約が締結され、その後に横浜が開港すると、外国船の対応は新設された神奈川奉行(横浜市)が引き継いだが、浦賀奉行所の役目は終わっていない。従来の「海の関所」の機能は残ったし、浦賀には軍艦の寄港地としての機能が加えられた。ここは、蒸気船用の石炭を供給するための納屋が設置されたのである。浦賀奉行所の歴史は、明治元年閏4月に新政府に接収されて閉じることになった。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。
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『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09343442