建仁寺の塔頭・大統院の本堂南庭「耕雲庭」。建長寺派管長・小堀泰巌の命名。
京都では毎年春と秋に、通常は非公開の国宝や重要文化財を含む仏像や建築、絵画、庭園などが「特別公開」される。この催しは、「京都非公開文化財特別公開」と呼ばれ、この秋で通算68回を数える。今回は市内の20社寺などで開催されるので、京都を訪れた際はぜひ、普段見ることのできない「伝統の美」の数々にふれてみてはいかがだろう。
京都を代表する夜の繁華街・祇園。その街中を南北に貫く花見小路を南下すると、禅の名刹建仁寺(けんにんじ)の北門にいたる。建仁寺は、中国の禅を日本にもたらした栄西(ようさい)が建仁2年(1202)に創建した、京都では最も古い禅寺である。
境内の中心部に三門・法堂(はっとう)・方丈が一直線に立ち並ぶ。今回訪れる塔頭(たっちゅう。大寺院の中の小院を指す)の大統院(だいとういん)は、境内の東奥にある。創建は観応年間(1350~52)。建仁寺夢窓(むそう)派の青山慈永(せいざんじえい 1302~69)が開いた。江戸時代の初め、徳川家康に仕えた儒者の林羅山(はやしらざん 1583~1657)が住んでいたことでも名高い。
近年、境内が整備され、三門をくぐるとモダンな切石の参道が奥へと伸びる。本堂の北・西・南は枯山水(かれさんすい)の庭。そのひとつ、「耕雲庭」と命名された南庭は、苔地と長方形の切石による市松模様が美しい。庭というよりもシンプルなデザインの布を大きく広げた印象で、愛知万博日本庭園などを手がけた作庭家・北山保夫の代表作である。
応挙が描いた足のない幽霊
大統院で公開されるのは、円山応挙(まるやまおうきょ 1733~95)筆「幽霊図」。秋に幽霊とはやや季節外れだが、応挙と幽霊という意外な組み合わせが面白い。
応挙は、京都の画壇に大きな影響を与えた「円山派」(まるやまは)の始祖。その画風は徹底した写生の重視にあり、繊細な筆致と大胆な構図で知られる。代表作の国宝「雪松図屏風」(せっしょうずびょうぶ 三井記念美術館蔵)は、日本画の頂点を極めた名作である。
一般に幽霊には足がないとよくいわれるが、この足のない幽霊を初めて描いたのが応挙とされている。一説によれば、ある僧が応挙に「幽霊には行足(歩く足)がない」と言ったからという。また別の説では、あるとき応挙の亡き妻が夢枕に現れ、その霊を見ると足がなく、まるで宙に浮かんでいるようだった。そこで応挙は足のない幽霊を描いたという。
さて、応挙の「幽霊図」を観てみよう。白装束の立ち姿、足元にぼかしが入っていて、確かに浮遊しているように見える。口元は大きく裂け、上歯が4本むきだしになっている。長く伸びた指は左右とも親指が隠れ、何か意味がありそうだ。この図に描かれている幽霊は上目遣いだが、どこから見ても目があってしまうので、八方睨みの幽霊である。幽霊図というと不気味な絵と思ってしまうが、この絵は怖さを越えて逆にどんどんひきつけられてしまう。一見に値する名画である。
奥田頴川の焼物も展示される
このほか大統院では、江戸時代後期の陶芸家・奥田頴川(おくだえいせん 1753~1811)の「赤絵十二支四神鏡文皿」(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)なども展示される。頴川は中国・明の末期に日本に亡命してきた明人の末裔で、30代半ばで家業を息子に譲り、陶芸に没頭。建仁寺山内の清住院で作陶を始めたともいわれている。中国陶磁器の研究にも取り組み、明時代の赤絵磁器の焼成に初めて成功した。京焼磁器の祖としても崇められ、その発展に大いに貢献した陶芸家である。
大統院(建仁寺山内)
住所/京都市東山区大和大路通四条下ル小松町593
公開期間/10月30日(金)~11月8日(日)
公開時間/9:00~16:00(受付終了)
拝観料/800円
問い合わせ先/075-754-0120(京都古文化保存協会)
文/田中昭三
編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園」完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。
画像提供/京都古文化保存協会