はじめに-浅井久政とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する浅井久政(あざい・ひさまさ、演:榎木孝明)は、どうしても「浅井長政(あざい・ながまさ)の父」のみで語られがちな人物です。けれど、その一生をたどると、ただの目立たない父では終わりません。
父・亮政(すけまさ)のあとを継いで近江の小谷(おだに)城を守りながら、京極氏や六角氏という強敵にはさまれ、苦しい舵取りを迫られた大名でした。
戦では思うように振るわなかった一方で、内政には見るべきものがあったとも伝えられます。そして最終的には子の長政に家督を譲り、自らは隠退。のちに小谷城落城とともに最期を迎えました。
華々しい勝者ではないからこそ、戦国の現実がにじむ人物でもあります。
『豊臣兄弟!』では、信長(演:小栗旬)をよく思っておらず、嫁いできた市(演:宮崎あおい)にもつらく当たる人物として描かれます。

浅井久政が生きた時代
浅井久政が生きた16世紀半ばの近江国は、周辺勢力がせめぎ合う緊張の強い土地でした。北近江では浅井氏が勢力を持つ一方、京極氏が再起をうかがい、南の六角氏も強い影響力を及ぼしていました。
つまり浅井氏は、外からの圧力を何度も受ける不安定な立場にあったのです。
父・浅井亮政の時代に浅井氏は存在感を強めましたが、久政の代になると、その基盤をどう守るかが大きな課題となります。
浅井久政の生涯と主な出来事
浅井久政の生年は不詳です。天正元年(1573)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
父・亮政の跡を継ぎ、小谷城主となる
浅井久政は、浅井亮政の子として生まれました。母は側室の尼子氏と伝わります。
天文11年(1542)に家督を継ぎ、近江国の小谷城主となります。通称は新九郎。のちに左兵衛尉、さらに下野守を称しました。
父の代に築かれた勢力を受け継いだものの、久政の前には決して平穏な状況ではありませんでした。
京極高広の攻勢、六角氏への屈服
久政の代は、対外関係で苦戦が続きます。父・亮政の死を機に、京極高広(きょうごく・たかひろ)が再び動き出し、久政はこれに攻められます。和を結ぶことで危機をしのいだものの、主導権を握ったとは言いがたい状況でした。
また、南近江の六角氏との争いでも終始劣勢だったとされ、再び六角氏に屈したとも伝えられます。戦国大名としては、拡大よりも防戦に追われる局面が多かった人物でした。
内政には見るべきものがあった
久政は、軍事面や対外政策では評価が低い一方、内政面には見るべきものがあったとされています。
派手な戦功が目立たない分、この点は見落とされがちですが、少なくとも「何もできなかった当主」と単純に片づけられる人物ではありません。外との戦いで押されながらも、領内をまとめる力は持っていたと考えられます。
家督を長政へ譲る
永禄3年(1560)、久政は家督を子の賢政、のちの長政に譲ります。自らは小谷城の小丸に隠退しました。
この家督譲渡は、浅井氏にとって大きな転換点でした。久政の代に対外的な苦境が続いたからこそ、若い長政への交代には、家の再建を託す意味もあったのでしょう。結果として、長政の代に浅井氏は再び強い存在感を示していくことになります。

小谷城落城と最期
しかし、久政は隠退後も、ただ歴史の表舞台から消えたわけではありません。
天正元年(1573)8月、織田信長の攻撃を受けて小谷城は落城します。このとき久政も城中で自害しました。
久政の生涯は、父の築いた勢力を守りきれず、子に託し、その子とともに浅井氏滅亡の場面を迎えるという、戦国らしい厳しさに満ちたものでした。

まとめ
浅井久政は、戦国大名としてみれば、決して派手な成功をおさめた人物ではありません。
けれど、その一方で内政面では見るべきものがあり、また、永禄3年(1560)に長政へ家督を譲った判断は、浅井氏の命脈を次代へつなぐ意味を持っていたといえます。
久政の人生は、父・亮政と子・長政の真ん中で苦しい時代を引き受けた人物だといえるのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











