文・写真/織田村恭子(アイルランド在住ライター)

日常に疲れた時、ふらりと旅に出たくなることはないだろうか。そんな時、アイルランドならダブリンから60km南、ウィックロー州にあるグレンダロックが良いかもしれない。ダブリンの街中から、半日や一日のガイド付きバスツアーが揃っていて気軽に行ける場所だ。

グレンダロックはアイルランド語で、二つの湖の間にある渓谷を意味する。アイルランド語の発音を英語化したグレンダロッホとカタカナ表記されることも多いが、アイルランドではアイルランド語の発音通りグレンダロックとなる。

グレンダロックは大昔、氷河で削られてできた。広大な自然の中にあり、ハイキング、ピクニック、森林浴、瞑想や散策など至福の時を楽しめる。

二つある湖の一つ。澄んだ空気が心地よい。

6世紀に聖ケヴィンが建てた修道院都市

キリスト教がアイルランドに持ち込まれたのは5世紀のことである。

西暦498年、聖ケヴィンはアイルランドの特権階級に生まれたが、神の道を選ぶ。グレンダロックの寂しい渓谷に移り住んだケヴィンは、弟子たちと修道院を建設し、聖職者の定住地とした。人里離れた静寂な場所は誘惑を避け、瞑想や祈りを通して、神につながる理想的な場所だったのだ。近くには豊かな水源があり、日々の食べ物は近隣の村人たちが運んできてくれた。ちなみに聖ケヴィンの死は西暦618年とされ、120歳の長寿を全うしたことになっている。

最初、ここには小さな修道院があるだけだったが、欧州からも多くの信者が訪れる巡礼地となる。グレンダロックは7つの修道院がある都市と呼ばれ、次第に文化や政治の中心として栄えていった。

ヴァイキングや中世のイギリスの侵略で、国中の宗教施設が強奪・破壊された時期でさえ、この聖地は奥深い森に守られるかのように存続してきた。こうして1500年近い悠久の時が流れた今でも、かつての修道院都市跡に足を踏み入れると、当時の面影を体感できる不思議な空間なのだ。

この修道院都市は元々、高い石塀でぐるりと囲まれていた。その塀はもうないが、入り口には石門が残る。その昔、僧侶になる決心をした者は、門でこう問われた。「門の向こうは神の世界。ここが俗界の終わりです。覚悟はできていますか」

門がふたつあるのは、最初の門から次の門を通過する間に気持ちが揺らいだ者に、俗世間に引き返すチャンスを与えるためだったのかもしれない。また、この門を通った者は、たとえそれが凶悪な犯罪人でも、90日間は修道院で庇護してもらえた。それを超えると、神の道に入るか否かを選択せねばならず、拒否すれば退去させられた。

二重の石門。昔は木造の二階があり門番が居住していた。

門を抜けると修道院都市跡が広がる。6世紀当時の最新技術で建設された大聖堂の屋根は消滅しているがアーチ、窓、灯りや聖像を置いた棚は現存している。

大聖堂跡。床と壁に並ぶ石板は墓石。

さらに進むと、ほぼ完全な姿をとどめる6世紀の「聖ケヴィン教会」が現れる。

「聖ケヴィン教会」。見張りの円塔が煙突に見えたことから「聖ケヴィンの台所」とも呼ばれるが、料理に使用された痕跡はなく、貴重品の保管庫だったと考えられる。

他国で殆ど例をみないユニークなラウンドタワー

これらの遺跡群の中でも、ひときわ目を引くのが聖ケヴィンの弟子たちが1000年前に建てた高さ33mのラウンドタワーだろう。地上から3.5m上に入口があり、梯子で出入りしていた。『グリム童話』にある「ラプンツェル(髪長姫)」を彷彿とさせるような円塔だ。

このタワーはベルタワーとも呼ばれ、昔は鐘を鳴らしており、旅の巡礼者には、この聖地を見つける目印となった。またヴァイキングなど敵の襲撃に備えた見張り台の役割も果たし、危険が迫ると、僧侶たちは宗教的宝物を持って中に避難した。

このラウンドタワーに触れながら一周すると、将来のパートナーのイメージが見えると言われる。
苔むしたケルト十字の古い墓標。キリスト教以前の宗教、ドルイド教が崇拝した太陽のシンボルである円とキリスト教の十字架を組み合わせたものでアイルランドにみられるユニークなスタイル。

聖ケヴィンと赤いドレスの女の伝説

グレンダロックには、観光ガイドが必ず語る伝説がある。

聖ケヴィンは若く非常にハンサムだった。そんな美男僧に、近くの村に住むキャサリンという女が激しい恋心を燃やす。彼女は聖ケヴィンが神へ貞操を誓い、世俗の愛に背を向けていることを知りながらも、あの手この手で彼を誘惑する。しかしキャサリンの努力が全て無駄に終わった時、彼女の恋慕は激しい怒りへと変わった。諦めきれないキャサリンは聖ケヴィンが瞑想のために時を過ごす僧院近くの洞窟に押しかけたのだ。しかし聖ケヴィンは彼女を拒絶し、そこから追い出してしまう。

ここで思わぬ悲劇が起こった。洞窟から追い出されたキャサリンが湖に転落し、溺死してしまったのである。こうして煩悩にまみれた彼女の魂は浮かばれぬ亡霊となり、赤いドレスを纏って今でもグレンダロックをさ迷うのだと言う。

観光ガイドは笑顔で「グレンダロックで赤いドレスの女性を見たら、それはキャサリンの幽霊かもしれませんよ」と締めくくる。しかし実は1975年4月25日発行の『The Wicklow People newspaper』に、こんな3本の記事が掲載されたのを知っているガイドは少ないかもしれない。

不思議な話

1970年11月の万霊節の日にグレンダロックに来たカップルが美しい風景を写真におさめた。いざ写真が出来上がってみると、なんと婚約者の近くに、いなかったはずのショールを巻いた皺だらけの老婆が写り込んでいたのである。ちなみにカトリックの万霊節の日とは、死後、煉獄で罪の清めが必要な霊魂のために、生きている人間が祈りと祈願をする日だ。もしキャサリンが老婆の姿で出現したのなら、救いを求めてこの日を選んだのだろうか。

次は1974年11月にグレンダロックを訪れたアメリカ人旅行客とその娘の体験談だ。

撮影した写真に、鮮やかな赤いドレスと赤いショールを纏った女性が、ラウンドタワーへの道を歩く姿が写っていた。しかし撮影時にそんな女性はいなかったのである。

最後は1975年の3月17日、聖パトリックスデーにグレンダロックを訪問したディック・フラーというアメリカ人の話だ。彼は妻が土産物店にいる間、古い墓地を歩きながら墓標を読んでいた。その時、彼の前を赤いドレスの女が廃墟に入って行った。彼も続いてそこに入るが、なんとそこには誰もいなかったのである。出入口は一つだけだ。女はどこに消えたのか。彼は「その女は幽霊に違いない」と語っている。

修道院都市跡の建物の一つ。教会か宿坊だったのだろうか。

異次元の魂が共存できる空間

しかし不思議な話は赤いドレスの女だけにとどまらないのだ。

2000年のこと、グレンダロックで数人がキャンプをした。就寝後、テントに近づいてくる複数の足音を耳にした彼らは不審に思い、テントの入り口を開けてみた。

なんとそこには、黒い僧服を着た大勢の僧侶たちが立って彼らを見つめていたのである。肝をつぶした彼らは、我先にとその場を逃げ出したと伝えられる。

しかし報道されたこれらの話からすると、グレンダロックに出現する不思議な存在たちは特に悪さをするわけではないらしい。人間が美しい景色や観光を楽しもうとここを訪れるように、異なる存在たちもここに現れる理由があるのに違いない。

ひょっとしたら、ここは生者と死者が、自由気ままに共存できる異次元空間なのかもしれない。  

修道院都市跡を抜けると、そこから森林につながる。
広々としたウィックロー州の山の中にあるグレンダロックは森林浴にも最適だ。
時折、顔を見せる花にほっこりする。

【グレンダロック(Glendalough)】
住所:Glendalough, County Wicklow, Ireland
公式サイト:https://glendalough.ie/
ウィックロー観光サイト:https://visitwicklow.ie/listing/glendalough-monastic-city/


【グレンダロックに行く観光バスツアーホームページ】
https://www.viator.com/searchResults/all?text=glendalough
https://www.collinsdaytours.com/tour/glendalough-wicklow-kilkenny-day-tour/
https://www.paddywagontours.com/morning-glendalough-wicklow-mountains-half-day-tour-from-dublin

文・写真/織田村恭子(アイルランド在住ライター)日本の多岐に渡る雑誌に現地ニュース、歴史・社会問題、旅行、料理等、記事・エッセイを執筆。またNHK地球ラジオを始め日本のラジオ番組へもアイルランドからニュースを発信。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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