はじめに―敦康親王とはどのような人物だったのか
敦康親王(あつやすしんのう)は平安時代中期の皇族であり、一条天皇の第一皇子として誕生しました。母は藤原道隆(みちたか)の娘である皇后・定子(さだこ/ていし)です。彼の生涯は短く、わずか20歳で薨去(こうきょ)しました。
敦康親王は、皇位継承をめぐる政治的な思惑に翻弄された悲劇の皇子として知られています。敦康親王は、実際にはどのような人物だったのでしょう? 史実をベースに紐解きます。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、中宮・彰子(あきこ/しょうし)に育てられ、彰子を慕う人物(演:片岡千之助/幼少期:渡邉櫂)として描かれます。
目次
はじめに-敦康親王はどのような人物だったのか
敦康親王が生きた時代
敦康親王の足跡と主な出来事
まとめ
敦康親王が生きた時代
敦康親王が生きた平安時代中期は藤原家が天皇をしのぐ権力を握っていた時代でした。藤原氏が権勢を振るい、特に藤原道長は「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という和歌に象徴されるように、絶大なる権力を握っていたのです。
このような背景の中、皇位継承や貴族間の権力争いが激化していました。
敦康親王の生涯と主な出来事
敦康親王は、長保元年(999)に生まれ、寛仁2年(1018)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
誕生と母・定子との死別
長保元年(999年)11月7日、敦康親王は一条天皇と皇后・定子の間に生まれました。生まれた場所は、平生昌(たいらのなりまさ)の邸です。長保2年(1000)4月17日、親王宣下を受けますが、同年12月15日、わずか2歳で母・定子と死別してしまうことに……。
御匣殿による後見と再びの別れ
母の死後、伯母にあたる藤原道隆の四女・御匣殿(みくしげどの)が敦康親王の後見人となりました。しかし、その2年後、御匣殿も亡くなり、幼い親王は再び後見人を失います。
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