中宮・彰子と藤原道長の養育
御匣殿の死後、中宮・彰子(あきこ/しょうし)と彰子の父である藤原道長が敦康親王の面倒を見ることになりました。彰子は一条天皇の中宮であり、敦康親王にとっては義理の母にあたります。
元服と昇進
寛弘7年(1010)7月17日、敦康親王は元服し、三品(さんぼん ※親王の位階の第三位のこと)に叙せられました。その後、大宰帥(だざいのそち)に任じられます。これは皇位継承者としての地位を期待されてのことでした。
皇位継承からの遠ざかり
寛弘8年(1011)6月2日、一条天皇の譲位が近づく中、敦康親王は一品(いっぽん)准三宮に任じられました。本来であれば皇太子に立てられる可能性が高かったものの、藤原道長の政治的思惑により、異母弟であり道長の外孫でもある敦成親王(あつひらしんのう/後の後一条天皇)が東宮(とうぐう ※皇太子の称)に立てられました。
式部卿への任命と早逝
長和5年(1016)1月29日、後一条天皇が即位。しかし、敦康親王はこの時も東宮になる機会を逃してしまうのです……。式部卿・敦明親王(あつあきらしんのう)が東宮になったため、式部卿となります。
その後、寛仁2年(1018)12月17日、敦康親王は20歳の若さで病死しました。
まとめ
敦康親王の生涯は、平安時代の政治的権力闘争に翻弄された悲劇の皇子として語り継がれています。母・定子や後見人との早すぎる別れ、そして皇位継承から遠ざけられた運命は、藤原氏の権力構造と密接に関わっているといえるでしょう。
敦康親王は、才智、心情ともに優れていたそうです。そうした彼の短い人生は、当時の宮廷社会の複雑さと、個人の運命がいかに大きな権力の波に左右されるかを物語っているように感じられます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大事典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)