「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。
2024年9月6日、文部科学省は『特別支援教育に関する調査について』(特別支援教育体制整備状況調査、通級による指導実施状況調査)を発表した。これによると通級指導在籍の児童生徒数は計19万8343人。前年度と比べ1万4464人増加しており、過去最多だった。
また、障害種別では、言語障害が4万8628人が最も多く、注意欠陥多動性障害4万3050人、自閉症4万2081人と続いた。小中高校の在籍児童生徒数に占める割合は1.6%だという。
千葉県内の一戸建てで一人暮らしをしている康夫さん(74歳)は「“発達障害”を知っていれば、妻(享年50歳)は死ななかったと思う。その償いを息子(44歳)がやってくれて、ありがたいと思う」という。
返還前の沖縄に向かう「地獄の船旅」で妻と出会う
康夫さんは国家公務員として定年まで勤め、外郭団体にいわゆる“天下り”をして、65歳から千葉県内の持ち家で、悠々自適の生活をしている。
「親が地主だったので、恵まれた人生だと思います。当時にしては珍しく、中高一貫校の私立男子校に通わせてもらって、ベビーブームも物ともせず、第一希望の私立大学に合格。学生運動の時代だったから、ろくに勉強しなくても大学を卒業できた。当然、身辺もキレイだったので、国家公務員になれましたから」
康夫さんは、「僕は全くやりたいことがない。言われた通りに仕事をするのが楽しい」と言い切る。
「友達はバンドや演劇、舞踏、写真などが趣味。僕はといえば、映画や海外ドラマを見ること。好きな作品を繰り返し見て、その舞台に行くのは好き。最近も『エミリー、パリへ行く』にハマって、フランスまで“聖地巡礼”に行ってきました。まあ、全てが受け身なんです」
だから康夫さんは“アクティブシニア”としてメディアに出る人に憧れるという。
「50歳で亡くなった妻がそういう人だったんです。常に好奇心旺盛で、何時間も夢中で絵を描いたりアクセサリーを作ったりしていました。それを発表して人の輪を広げていくんですから。あの人は生き急いだのかもしれません」
妻との出会いは、康夫さんが大学3年生の時に行った日本返還前の沖縄県への旅だ。
「大学の友人に“パスポートが必要な日本を見よう”と誘われ、2人で行ったんです。1971年当時、沖縄は外国でした。パスポートは、顔写真を糊で貼り、割り印を押しただけの簡素な冊子でね。当然、飛行機の直行便はなく、陸路とフェリーで3日間くらいかけて行ったんです」
鹿児島まで鉄道で、そこから船だ。旅費を節約するために、船底近くの最も安い雑魚寝の船室を選んだ。揺れも激しく、船酔いで食事もできなかったという。
「当時も1日半くらいかかりました。そこらの人がみんなグロッキーで、よく病気にならなかったと思うほどの不衛生な“客室”の地獄の船旅なわけ(笑)。まあ、よくあんな旅をしたもんだと思いますよ。当時の僕は強かったと思う」
その船に妻がいた。妻は当時20歳、ヒッピーと呼ばれるライフスタイルを送っていた。住所や定職を持たず、当時、日本に点在していたコミューンと呼ばれるヒッピーの生活圏を泊まり歩いて生活するのだ。
「妻は富山県出身で、高校を卒業後にスーパーの店員になり、1か月で飛び出し、大阪の“夜の蝶”になったそうです。そのお金で全国を旅する生活をしていたのです」
沖縄に上陸すると、康夫さんと友人は計画通りバスで沖縄を巡った。那覇からコザまで行き、生々しい戦争の爪痕や、アメリカ兵の姿などを見ていたという。
「片腕がなく、顔に火傷の痕が残る小柄な女性がお弁当を売っていました。そのお弁当が美味しくて。だからこそ、痛ましかった。他にも、正視できない人にもたくさん出会いました。また、当時はベトナム戦争が泥沼化している時代。僕らにとって憧れの国・アメリカの兵士たちが、歓楽街で泥酔して正体をなくしていたりする姿を見て、戦争が人間に与える悲劇を感じたのです。僕は『戦争を知らない子供たち』世代ですから」
別行動していた妻と再会したのも、沖縄の歓楽街だった。
【奔放な妻と結婚し、夫婦ゲンカに明け暮れる…次のページに続きます】