「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。
今、かつて、生活を支えていたサービスや商品が終了するという報道が増えている。8月7日、NTTの島田明社長は記者会見で、傘下のNTT東日本とNTT西日本が提供している国内の電報サービスについて言及。「どこかのタイミングで終了させる方向で公的な場で話を進めるべきだ」と述べたことが報道された。
フィルムカメラ、瓶の牛乳、フロッピーディスク、「ガラケー」と呼ばれる従来型携帯電話などが、この世から消えていくニュースを見聞きするたびに、感傷的になる人は多いのではないだろうか。
「人生に深く関わったものがなくなるのは寂しい。ちょっとしたことを受け止めてくれる存在はありがたいよね」と語るのは、東京23区内のマンションで一人暮らしをしている伸彦さん(75歳)だ。
中卒なのに、大卒の10倍の月収を得ていた
2025年11月に新排ガス規制が施行される。それに伴い、50ccバイク(原付)製造の今後についてメーカー同士の提携などの報道が相次いでいる。
「原付は僕の人生を支えた乗り物。製造が中止になるかもしれないというニュースを聞いて、思わず息子(40歳)に電話したら、“今、仕事中だから”と切られちゃった。でもすぐに向こうからかかってきて、“さっきはごめんね”って。自分のことしか考えなかった息子が、僕を気遣ってくれる。こういうことがありがたいと思う」
伸彦さんはかつて築地で美容院を経営していた。当時、自宅があった荒川区から築地まで、雨の日も風の日も原付で通っていたという。
「だから、原付には思い入れがある。30年間で5台の原付にお世話になりました。30年くらい前まで、蕎麦屋の出前、電報の配達員、郵便局員など、東京にはたくさんの原付が走っていた。どこでも停められたし、税金も安いし、車検もない。僕はケチだから、金がかからない乗り物が好きなんだ」
伸彦さんが倹約家である理由は、家が貧しかったことがある。
「僕は群馬の山奥の貧しい村の出身。貧乏な家も勉強も嫌いだったので、中学校を卒業したら、東京に行くと子供の頃から決めていた。集団就職で上京して、大田区の畳屋に入ったんですよ」
当時、畳は必需品だった。建設ラッシュに沸く東京の畳屋は常に繁盛しており、毎日、朝から夜中まで畳を作っていたという。
「筋がいいとほめられ、ずいぶん可愛がってもらったけれど、2年で辞めた。僕は今でこそおじいちゃんだけれど、昔は紅顔の美少年だったのよ。親方の奥さんから誘われるようになった。住み込みで逃げ場もない、仕事どころではなくなるでしょ。だから辞めたんです」
その後、料理店勤務を経て、20歳のときに化粧品のセールスマンになった。当時は飛び込み営業が「当たり前」の時代。伸彦さんが訪問すると、化粧品は売れに売れた。
「セールスマンになったのは、成功することを確信したから。その通りになったよね。“ごめんくださいませ”と家に入って、玄関先でその家の奥さんの顔をとにかく褒める。“もっと美しくなりますよ”ってお化粧してあげる。僕は手先が器用だから、メイクも上手い。奥さんは“あら、きれいになったわ!”と、化粧水、乳液、ファンデーションと買ってくれる」
昭和44(1969)年で大卒の初任給が3万円程度の時代に、1万円分以上の化粧品を毎日のように売っていた。
「中卒なのに大卒の5〜10倍は稼いでいたと思う。幼い頃の貧乏生活で、金の大切さはわかっていたので、ひたすら貯め込んでいました」
伸彦さんがそこまで成績を出せたのは、メイクの提案が上手だったから。昭和40年代当時、実際に顧客にメイクをするなどの使い方を提案しつつ販売する店舗は限られていたという。ただそれにも翳りが見えてきた。
「外資系の化粧品会社が続々と上陸し、女性雑誌にメイクの方法なども紹介されるようになった。当時は“外国のものは優れている”という意識が強い時代ですから、売り上げが少しずつ下がっていったんです。あと、自分の中で“これは一生やる仕事ではない”という予感があった。給料も歩合制ですし、技術を磨いた先に何があるのかも見えなかった」
【25歳で一大決心をして、美容師になる…次のページに続きます】