結婚した妻は、発達障害だったのではないか
妻は、沖縄の歓楽街でアクセサリーを売っていた。妻は船の中で「私、お金がなくなると、手作りアクセサリーを作って売るの。すごい売れるんだよ」と話していたことを思い出した。
「当時も、路上販売は法律で禁止されていたんですが、監視カメラなどがないから、警察の見回りが来るまでに売るのが勝負だそうです。そんな彼女に酔っ払った男性の2人づれが絡み、体を触っていた。僕はとっさに“僕の連れがすみません”と助けに行ったら、いきなりぶん殴られちゃってね。僕は親にも叩かれたことがない。人生最初で最後のパンチですよ。すごい痛みと衝撃に、呆気に取られて泣いちゃったんです」
当時、「男が泣く」というのは一大事とされていた。殴った相手も康夫さんの号泣っぷりに怖気付いて逃げ出したという。
「彼女は僕の口についた血を拭いてくれて、僕たちが泊まっている民宿まで送ってくれた。そして“お金がない”と言うので、宿の人に話をつけて、泊めてあげました。翌朝、彼女はいなくなっていました」
この旅行を機に、康夫さんと友人は戦争のない社会にしたいと強く思い、国家公務員を目指す。ともに猛勉強を始め、見事に合格。彼女と再会したのは、康夫さんが28歳の頃だった。
「渋谷の路上でアクセサリーを売っている彼女を見て“あ!”と。懐かしくて声をかけて、友人と3人で食事をすることにしたんです。彼女は全く変わらず、エネルギッシュでアクティブでした。こっちは公僕として滅私奉公しています。いきいきと輝く彼女にどんどん惹かれてしまい、その日のうちに付き合うことになったんです」
時代は、1977(昭和52)年。ヒッピーのコミューンも少なくなり、彼女も27歳になっていた。友達の家に居候する彼女が、「そろそろ落ち着きたい」と言うので、交際半年で結婚することにしたという。
「当然、両親も姉も大反対。友人も“やめておけ。苦労するぞ”と言いましたが、押し切って結婚したんです。まあ皆の言う通り大変でした。僕は長男なので、両親と同居になるのですが、母が掃除のやり方を教えると、ヘソを曲げて友達の家に家出する。1週間帰ってこないので、心当たりに電話をすると、大阪に行ってホステスをしていることがわかったりね。私が真剣な話をしても明らかに上の空。私が話した内容を全く覚えていないこともありました。かと思えば、一方的にケンカをふっかけられ、発言の揚げ足を取られることもあったな。僕の結婚生活は、正解のない問題を解き続けているような毎日でした」
康夫さんの両親はすぐに疲弊し、近くにマンションを借りた。
「親が出ていくと、のびのびとしている。それはいいのですが、実家の散らかりっぷりがすごいんです。いわゆるゴミ屋敷のような状態になってしまう。洗濯を干しているときに電話がかかってきて、それを取ったら洗濯物を忘れる。テレビでアクセサリーを見たら、どうしても作りたくなり、深夜まで作り続けるなどをしていました」
見かねた両親が、家に通って家事を回すようになった。両親が妻に言い含めても、「私のことを馬鹿にしているんでしょう」とか「嫌いなんでしょう」などと言って跳ねのけた。
「そうこうするうちに、長男が誕生。子供が生まれれば変わるだろうと思っていたけれど、ちょっとおとなしくなったくらい。妻は、今思えばいわゆる発達障害なのですが、当時は分からなかったんです」
康夫さんは、当時、公務員として多忙を極めており、妻のことを無視したり、辛く当たってしまったこともあったという。
「終電でへとへとになって帰ってきた雨の夜、寝室を見たら僕の布団がない。妻を起こして聞いたら“あ! ベランダ!”と言う。昼間、晴れていたので干したが、取り込むことを忘れたというんです。家は散らかり放題で、アクセサリーのビーズなども散らばっていて、踏むと痛い。その時に初めて妻に手を上げました」
以降、10年以上、妻を「いないもの」として扱っていたという。
「やることなすことトンチンカンで、見ないようにしていました。息子は険悪な両親を取り持つように頑張ってくれて、小学校5年生の時に、登校拒否……今の不登校になってしまった。それでも妻はほっつき歩いている。学校に行かない息子をキャンプや登山に連れて行ったのも僕です」
【妻は膵臓癌で急死してしまった……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。