「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。では親孝行とは何だろうか。一般的に旅行や食事に連れて行くことなどだと言われているが、本当に親はそれを求めているのだろうか。
ここでは家族の問題を取材し続けるライター沢木文が、子供を持つ60〜70代にインタビューし、親子関係と、親孝行について紹介していく。
「私はモンスターペアレンツだった」
2024年6月27日、「公立学校共済組合」が、『公立学校共済組合のストレスチェックデータ分析結果報告書』を発表。医師による診察が必要な「高ストレス」の教職員が過去最高の11.7%に上ったことがわかった。ストレスの原因は、事務的な業務や保護者への対応だという。公立学校は「ブラック職場」として語られることが多い。理由は、長時間労働や教職員に高圧的な態度をとる保護者(モンスターペアレンツ)のほか、多くの問題があるからだ。
千葉県内に住む会社役員の幹代さん(70歳)は「私はモンスターペアレンツだった」と話す。彼女は40歳で離婚し、当時15歳の息子をひとりで育てた。
現在45歳になった息子は、35歳のときに勤務していた一流企業を辞め、地方に移住したという。「会社に過重なノルマと、すごいプレッシャーをかけられていた。辞めてくれてホッとした。これもまた、親孝行だと思う」と語る。
それは、幹代さんが完璧主義の母親で、息子を厳しく育て、「途中で辞めるな」と育てていたからだ。会社員時代の息子は、休みなく働き、会社に支配されていた。その様子を見て、無理がたたって病気になったり、命を落としてしまうことを恐れていたという。
幹代さんは「息子が一番」でなければならず、息子の成績が悪かったり、個人面談で問題行動を指摘されると、先生に徹底的に詰問していた。
「私がモンスター化していたのは、学歴至上主義だったから。息子の先生が、私より学歴が低いとあからさまに見下していました。私は子育て中にたくさんの不満を抱えていた。それを先生にぶつけてしまったんだと思う。今、ものすごく反省しています」
幹代さんに出身大学を聞くと、高い人気を誇る名門私立大学だった。彼女がその大学に入った1970年代初頭の女性の大学(学部)進学率は10%(『学校基本調査』文科省)に満たない。
「だから、私は特別だという意識が強かった。学歴にこだわった理由は、私が外国籍だったから。自分ではどうにもならないことで、ものすごい差別を受けたからこそ、私は努力でいけるところまでやろうと思ったのです」
今でこそ、ダイバーシティがすすみ、あらゆる差別をなくすために、社会全体が動いている。しかし、かつての日本には、ひどい外国人差別が横行していたと幹代さんは語る。
「今でも覚えているのは、4歳のときに私立幼稚園の入園を断られたこと。“他のお子さんに悪影響があると行けないので”と言われました。そんなこともあって、誰よりも優位に立たなければという気持ちが強くなっていったんです。小学校低学年の頃は、いじめもすごかったですよ“くさい”と言われたこともありました。私の国籍を知った友達に無視されたこともありました。だから空手を習って、いじめっ子を徹底的にやっつけたんです。そのときに“力で勝つ”という気持ちよさを知ってしまった」
幹代さんには2歳下に弟がいるが、のんびりした性格だという。国籍のことでからかわれても「そうなんだ」と流し、特にこだわることもしなかった。
「親は私と性格が近い。特に父からは“おまえが男だったらな”といつも言われていました。今なら“性差別だ!”ってなる話でしょ。でも当時の私は誇らしかった。父親から“おまえは男だ、男だ”と言われ続けているうちに、そうなってしまい、青や黒の服ばかり着ていました。本当はピンクや赤が好きなのにね。言葉は呪いだと思いますよ」
幹代さんの父が望んでいた“男”とは、腕っぷしが強く、豪胆で、統率力がある人間像だった。
「私、自分のことを織田信長の生まれ変わりだと思っていましたから(笑)。空手も頑張りましたが、勉強も中学校では学年一位をキープし、都立の進学校に進みました。でもその高校は、地域の頭がいい子が集まる学校。私の順位も中くらいになってしまい、悔しくて泣きました。どれだけ勉強しても、30番以内には入れなかったのです」
【東大は諦めて、私立大学に進学「同窓会には行けない」…次のページに続きます】