鎖国が解かれると、未知なる地に希望を抱き、やって来た多くの外国人。彼らが気づき、広めようとしたニッポンの魅力とは。
幕末から明治にかけて、多くの外国人が日本を訪れるようになった。当時は横浜か長崎から上陸し、欧米から太平洋を横断する場合は、横浜に入港することが多かった。そのとき、海上から大きく聳え立って見えるのが、富士山であった。裾野を大きく広げた優美な山容は、外国人写真家にとって恰好の被写体となり、富士山の写真が数多く撮影された。
そんな富士山に魅了された写真家のひとりにハーバート・ジョージ・ポンティングがいる。彼はアムンセンと南極点到達を争ったスコットの撮影隊カメラマンとして知られているが、同時に日本の自然や文化、芸術を愛し、『この世の楽園 日本』(1910年)という書籍を著した知日家でもあった。
ポンティングが残した写真について、静岡県富士山世界遺産センター准教授で、富士山の歴史や人々との関わりを研究している井上卓哉さんは、次のようにいう。
「ポンティングは日本に強い興味と憧れがあったと思います。撮影するだけではなく、現地の人に、登山の装備などについて聞き取りもしている。写真家にとどまらず、日本の様子を正しく伝えようとするジャーナリスティックな視点を持っていたと思います」
富士信仰を欧米に紹介
ポンティングは1903年と翌年に富士山に登った。そのときの記録には、富士山の祭神である木花開耶姫(このはなのさくやひめ)や、巡礼者が唱える「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の意味などを書き留めている。気象学者であり、富士山頂に観測所を設けようと尽力した野中至・千代子夫妻についても詳細に記録。
「おそらくポンティングは、登山に同行した強力(※ごうりき:登山者の荷物を背負う案内人。)や途中で立ち寄った浅間神社の神主などから聞いた話をまとめたのだと思います。彼は、明治時代の富士山に対する日本人の信仰の姿を欧米に正確に紹介した人物のひとりといえるでしょう」
北斎とポンティングの類似点
ポンティングは富士山を撮影するにあたり、葛飾北斎の浮世絵を参考にしたのではと指摘する研究者もいる。実際、彼の富士登山記録には、冒頭に北斎や広重の富士山を描いた浮世絵に言及していることから、その可能性は充分に考えられる。井上さん曰く、
「ポンティングは著書で、富士山は季節や天候などで刻々と姿が移り変わるのが美しい。そして、その美しさを切り取って描くのが画家の真骨頂であるということを書いています。実際、彼も写真という技術を使い、移ろいゆく富士山の美しさを切り取ることを試みたように思われます」という。
歴史的資料としての価値
芸術的にも優れているポンティングの写真だが、歴史的な資料としても重要な価値があると井上さんは指摘する。
「写真のデジタル化が進み、拡大してみるとさまざまな情報が読み取れるようになりました。例えば、当時の富士登山案内には、下山のときは摩擦による破損を防ぐためわらじを二重三重に重ね履きした方がよいと書いてあるのですが、ポンティングの写真から、それが実践されていたことが確認できました」
明治時代に、美しい富士山を撮った外国人写真家は多かったが、日本人の習俗や生活にまで入り込んだ写真家はそれほどいなかった。ポンティングは、その数少ないひとりであった。
「彼は、当時は知られざる国であった日本の実像を世界に紹介してくれました。しかし、それにとどまらず彼の写真を検証することで、当時の日本人の姿をリアルに知ることができます。これは、現在の私たちにとって、とても価値のあることだと思います」
ポンティングが著した『この世の楽園 日本』
取材・文/大関直樹 写真提供/井上卓哉(『Japan through the stereoscope』、『In Lotus-Land Japan』より引用)
※この記事は『サライ』本誌2024年7月号より転載しました。