はじめに-「方広寺鐘銘事件」とはどんな事件だったのか
「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」とは、豊臣秀頼が京都の方広寺大仏殿を再建したことで引き起こされた事件です。大坂冬の陣の起こるきっかけのひとつとなり、その意味において、豊臣家滅亡の序章となる出来事でした。
目次
はじめにー「方広寺鐘銘事件」とはどんな事件だったのか
「方広寺鐘銘事件」はなぜ起こったのか
関わった人物
「方広寺鐘銘事件」の内容と結果
その後
まとめ
「方広寺鐘銘事件」はなぜ起こったのか
そもそも方広寺は、豊臣秀吉が大仏を安置するため、文禄4年(1595)に創建しました。しかし、大仏は慶長の大地震により倒壊。秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、慶長7年(1602)、鋳造中の大仏から出火炎上し大仏殿までも焼失します。
そして慶長12年(1607)、秀頼は豊臣家家臣の片桐且元(かたぎり・かつもと)を奉行として、再び大仏および大仏殿の建立を目指すことに。まず大仏が鋳造され、大仏殿が完成したのは慶長17年(1612)のこと。慶長19年(1614)4月には梵鐘も完成し、徳川家康の了承のもと、あとは8月3日の大仏開眼供養と大仏殿供養を待つばかり。しかし、7月に入ると徳川陣営からいくつかのクレームが入ります。
例えば、大仏殿再建工事のため徳川家が派遣した、大工頭の中井正清の名が棟札に記されていないことなど。なかでも、徳川家が問題視したのが鐘の銘文についてでした。ここに「方広寺鐘銘事件」が幕を開けます。
関わった人物
ここでは、方広寺鐘銘事件に関わった人物をご紹介します。
豊臣秀頼
父・秀吉の悲願であった京の大仏を再建する。
片桐且元
方広寺大仏殿再建の作事奉行。徳川家と豊臣家の間を取り持たんと奮闘する。
清韓
梵鐘の銘文を記した南禅寺の長老。
徳川家康
梵鐘の銘文をおおいに問題視。大仏殿落慶法要の延期を申しつける。
林羅山
朱子学者。鐘銘について、家康への呪詛の意図ありと豊臣家を糾弾。
金地院崇伝
南禅寺の僧にして、家康の懐刀。豊臣方の取り調べを担当する。
【「方広寺鐘銘事件」の内容と結果。次ページに続きます】