はじめに-増田長盛とはどんな人物だったのか?
増田長盛(ました・ながもり)は、秀吉に仕えた武将です。秀吉から絶大な信頼を置かれた知将・石田三成と並び、内政面で優れた才能を発揮したとされます。その後、秀吉を献身的に支え続け、五奉行(豊臣政権下で、政務を分掌した五人の奉行)にも抜擢されました。
豊臣政権下で順調に出世した長盛。忠誠心が強く、政治的手腕に長けた人物というイメージがありますが、実際の増田長盛はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、外交政策に長けた豊臣五奉行の一人(演:隈部洋平)として描かれます。
目次
はじめに―増田長盛とはどんな人物だったのか?
増田長盛が生きた時代
増田長盛の足跡と主な出来事
まとめ
増田長盛が生きた時代
増田長盛は、天文14年(1545)、尾張国(=現在の愛知県)に生まれました。長盛が生まれた年は、「相模の獅子」という異名を持つ猛将・北条氏康(ほうじょう・うじやす)が大きく勢力を拡大していた時期にあたります。
さらに、その4年後には今川義元が松平氏を支配下に置き、竹千代(=のちの家康)が人質として駿府に渡っています。長盛は、有力武将がひしめく激動の時代に生を受けたのです。
増田長盛の足跡と主な出来事
増田長盛は、天文14年(1545)に生まれ、元和元年(1615)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
秀吉に仕える、五奉行に抜擢される
増田長盛は、天文14年(1545)、尾張国増田村(=現在の愛知県稲沢市)に生まれたと伝えられています。通称は仁右衛門(にえもん)で、幼少期から秀吉に仕えていたそうです。天正12年(1584)に勃発した「小牧・長久手の戦い」では、家康と信長の次男・信雄の連合軍と戦い、秀吉を支えました。
その功績を称えられ、秀吉から2万石を与えられました。軍事面でも活躍した長盛ですが、それ以上に内政に精通していたとされます。そのため、検地奉行(検地を執行する責任者)を務め、近江国(=現在の滋賀県北東部)や安房(あわ=現在の千葉県南部)などの検地に尽力しました。
天正18年(1590)には、京都の鴨川に架かる三条大橋の改修工事にあたったとされています。また、文禄元年(1592)に始まった「文禄の役(第一次朝鮮出兵)」の際には、自ら朝鮮に渡って行政や軍務を掌握することに。
その後、文禄4年(1595)に豊臣秀保(ひでやす、秀長の養子)が亡くなったことで、その居城であった大和郡山城(=現在の奈良県大和郡山市にあった城)を与えられ、長盛は20万石を有する大名となりました。
秀吉による太閤検地の実施に大きく貢献した、長盛。内政面で優れた才能を認められ、慶長3年(1598)、石田三成らとともに「五奉行」に抜擢されました。豊臣家臣団の中心的人物の一人として名を連ねたのです。
【「関ケ原の戦い」勃発、大坂城の留守居を務める。次ページに続きます】