「関ケ原の戦い」勃発、大坂城の留守居を務める
秀吉の死後、五奉行の一人として秀頼補佐に従事した長盛。慶長5年(1600)、覇権をめぐって争った三成と家康により、天下分け目の「関ケ原の戦い」が勃発。この時、長盛は三成率いる西軍に与し、3000の兵をもって大坂城の留守居を務めました。
家臣に兵をつけて関ケ原の地に送るものの、一方で家康に大坂城内の様子を伝えるなど、長盛自身は中立的な立場をとっていたとされます。最初の方は、西軍有利に進行していたものの、やがて膠着状態となり、最終的に家康率いる東軍の勝利で、戦いは幕を閉じました。
高野山追放、失意の最期
戦後、長盛は家康のもとに使者を送り、彼に許しを請おうとしました。しかし、家康は長盛を許すことなく、所領を没収したうえで高野山へと追放してしまったのです。一方で、長盛と同じく大坂城の留守居を務め、東軍に通じながらも西軍に与した武将・徳善院玄以(とくぜんいん・げんい)は、家康から所領を安堵されています。
家康は、長盛の豊臣家に対する強い忠誠心を見抜き、彼を警戒したのかもしれません。高野山に追放された長盛は、岩槻城(=現在の埼玉県さいたま市にあった城)の城主・高力清長(こうりき・きよなが)に預けられることとなりました。
しかし、元和元年(1615)に勃発した「大坂夏の陣」にて、息子の盛次(もりつぐ)が大坂城に入城していたことが発覚します。この件について家康に咎められ、長盛は責任を取って自刃。71年の生涯に幕を閉じたのです。
まとめ
五奉行の一人として、豊臣政権を支えた増田長盛。改易処分や連座に伴う自刃は、長盛にとって悔いの残る結末だったのかもしれません。しかし、優れた政策で主君を支え続けた功績は、非常に大きいものであると言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)