銀座一丁目裏路地には、知る人ぞ知るビルがある。その名は奥野ビル。竣工は1932年(昭和7年)。東京大空襲とバブル経済の地価狂乱や再開発ブームを逃れた建物だ。手動式エレベーターが今なお稼働するこのビルの403号室に「スーツを愛する紳士淑女」のためのサロンがある。この連載ではその、仕立て屋のオーナー・大西慎哉が“おしゃれとスタイルの愉しみ”を紹介していく。
今回のテーマは「暑い日に仕込んでおきたいスーツの知識」。新英国王・チャールズ3世(以下・チャールズ国王)即位で注目される、知られざる「袖の仕様」について、解説する。
チャールズ3世国王陛下戴冠式の基礎知識
暑い日々が続いています。2023年夏、英国では気温が観測史上最高を記録。6月の気温が1940年の最高記録からさらに0.9度高かったと報道されました。紳士の装いは、寒冷な気候もあり進化し続けてきました。これからの変化も気になります。
さて、これほど暑いのですから、スーツを「着る」のではなく「知る」愉しみを提案したいと思います。
最近の英国のトピックスと言えば、2023年のチャールズ3世国王陛下(以下、チャールズ国王)の戴冠式。あの荘厳な様子から、大英帝国が紡いだ歴史が伝わってきました。映像でもあれほど心を打つのですから、現地にいる人は感動したでしょうね。
あのとき、チャールズ国王が着ていた毛皮のローブに多くの人が注目したと思います。あれは、ロンドンで最も古い仕立て屋、1689年創業の『Ede&Ravenscroft』(イード&レイベンスクロフト)が仕立てたもので、正式には「ローブ・オブ・ステート」といいます。あのローブの歴史も古く、ジョージ6世(1895~1952年)のために仕立てられたものです。
そして、聖エドワード王冠を戴冠したときの壮麗なゴールドの上着が記憶に残っている人も多いでしょう。あの名前は「スーパーチュニカ」といいます。チャールズ国王が着ていたものは1911年にジョージ5世(1865~1936年)のために作られたもので、総重量は2キロ。絹の糸を金や銀の金箔で包んだ素材でできています。
この上に、1821年に作られた「インペリアル・マント」を着用。それから、ジョージ6世の紫のローブ・オブ・エステートに着替え、大英帝国王冠をいただいて、パレードをしたのです。
私は“スーツ仕事”をして40年近くたちますが、モノにも威厳があることを感じます。優れたクラフトマンが手がけた服は、意思を持っており、目に見えない思いが伝わってきます。糸1本においても、違いがあります。一度、“本物”と比べてみてください。きっと魅了されるはずですよ。
チャールズ国王の「Turnback Cuffs」とは?
さて、戴冠式は遠い世界の話ですが、私たちの装いに取り入れられるエッセンスが多いのは、戴冠式の前日にバッキンガム宮殿で行われたレセプションパーティ。このドレスコードは「平服」だったことは日本でも大きく報道されました。
各国首脳や海外からの賓客が招かれ「平服」で参加する……これは、長年、環境問題に取り組み続けてきたチャールズ国王らしい提案だともいえます。招待状も再生紙だったそうです。ここに日本から、秋篠宮皇嗣殿下が出席されたことは報道されました。
この日チャールズ国王は、ネイビーブルーの3ボタンのシングルスーツを着ていました。そこに、薄いピンクの小紋ネクタイとチーフをあしらい、ドレスシャツは白地ピンストライプで、襟はレギュラーカラーと呼ばれるありふれたものでした。
襟の形、シャツの柄、上着の形などに意味があります。この日のチャールズ国王の装いは、スーツの世界では平服で、私たちの感覚でいうと、「かしこまったレストランで、会食をする」程度の装いともいえます。
その中で私が注目したのは、上着の袖がTurnback Cuffs(ターンバックカフス)であったこと。日本ではあまり見かけませんが、英国のビスポークスーツではおなじみの仕様です。スーツの袖先が折り返しているのです。
上の写真で紹介しているスーツは、ウエストコート(ベスト)付です。チャールズ国王はレセプションパーティではウエストコートをお召しになっていませんでした。パーティは「カジュアルな会」でしたので、あえてツーピースをお選びになったのでしょう。
元々のスーツの由来を考えると、三つ揃いが本流です。もし、これからあなたがスーツを仕立てるなら、どんなシーンでも合う、スリーピーススーツをお勧めします。普段はツーピースでもウエストコートを着用することによりかしこまった装いになります。
ジェームズ・ボンドも愛用
このターンバックカフスは、別名「ガントレットカフス(Gauntlet Cuffs)」とも呼ばれています。中世の鎧の手袋「ガントレット」からその名前がきています。
このカフスは 16 ~17 世紀頃に燕尾服やフロックコートに使用されていました。
その後、20世紀初頭のエドワード朝時代にファッショナブルな流行として、スポーツウェアやイブニングウェアなど、さまざまなジャケットやコートのスタイルに使われました。
さらに、広く知られるようになったのは、映画ジェームズ・ボンドシリーズの『007 ドクター・ノオ』(1962年)から。俳優のショーン・コネリー(1930~2020年)が演じるボンドは、ディナーのときに、ターンバックカフスのジャケットを着用したのです。エレガントでクールなこの袖のあしらいは、ボンドファンの間に広まりました。
原作にも、「ターンバックカフスのジャケット」と書かれてているんですよ。原作者のイアン・フレミング(1908~1964年)は元軍人で、服装について非常に明るい人でした。ボンドのキャラクター作りにおいて、スーツの袖口まで指定する観察眼に感服したことを覚えています。
また、この袖は、装飾的なだけでなく袖の端を摩耗から保護する役目も持っていて、使い古されたらカフ(折返し)
を取り外して、綺麗な未使用の袖の端を露出させることも可能です。
チャールズ国王は「キング オブ サスティナブル」といわれるほど、質素で持続可能なライフタイルを送っていることが知られています。だからこそ、この袖のジャケットを選んだのだろう……と思ってしまいました。
国王の仕立て屋、Anderson&Sheppard(アンダーソン&シェパード)は公式サイトで、「ターンバックカフスを希望されるお客様は稀ですが、一度ターンバックカフスで作られると、ジャケットにエレガントさが加わり、リピート率が高い」と紹介していました。
また私がかつて勤務していた『ハケット ロンドン』を率いるジェレミー・ハケット氏は「スーツでターンバックカフスにする場合、袖のカフの幅は、トラウザーズ(ズボン)の裾のダブルの幅と揃えるとエレガントだ」と話していました。
貴方も、シンプルなスーツをターンバックカフスで仕立ててみませんか!?
他の方と少し違う意志を持った装いを楽しむことが出来ます。Sloane Ranger Tokyoではターンバックカフスのお仕立も手がけています。
【多種多様な意味がある、ジャケットの袖ボタンとは……次のページに続きます】