銀座一丁目裏路地には、知る人ぞ知るビルがある。その名は奥野ビル。竣工は1932年(昭和7年)。東京大空襲とバブル経済の地価狂乱や再開発ブームを逃れた建物だ。手動式エレベーターが今なお稼働するこのビルの403号室に「スーツを愛する紳士淑女」のためのサロンがある。この連載ではその、仕立て屋のオーナー・大西慎哉が“おしゃれとスタイルの愉しみ”を紹介していく。
スーツが生まれた背景にはペストの流行があった
はじめまして、スタイルアドバイザーの大西慎哉と申します。アパレル分野で30年間仕事を続けてきましたが、コロナ禍真っただ中の、2021年2月に齢55歳にして念願のサロンを立ち上げました。
では、ここでスーツの歴史をひとくさり……今年、2021年はスーツ誕生355周年なのです。
1666年10月7日、英国王チャールズ2世が、「余は新しい衣装一式を採用することにした。この衣装は、もう変えることはない」という衣服改革宣言を出しました。日本だと4代将軍・徳川家綱の時代ですね。
この宣言によって、宮廷服が一新され、男性のスリーピーススーツの概念が誕生。
見た目は上着の丈は長く、下はブリーチズ(半ズボン)で、長髪のかつらにハイヒールと、現在のスーツのイメージとは違いますが、それまでの宮廷服とは異なる服でした。
衣服改革宣言を出した背景には、1665年のペスト大流行、1666年にはロンドン市内の家屋のおよそ85%を焼き尽くすロンドン大火事が起きたことがあります。
困窮したイギリス国民の不満の矛先が、宮廷の贅沢に向いていったのです。そこで絢爛豪華な宮廷衣装を一新し、シンプルで機能的で、美しい衣装に改めようという目論見があった、と推測されています。
何だか現代の世界情勢にも似ていますよね……ですから、私はスーツブームが来るのではないか、と考えているのです。
伊勢神宮勤務の父に、スーツの魅力を教えられる
さて、ここで私が「仕立て屋を立ち上げるほど、なぜスーツに魅せられたのか」といいますと、時間は50年以上前にさかのぼります。
私は、1965年三重県松阪市に生まれました。父親は伊勢神宮に勤務しており、父に伴って、正式参拝をすることもありました。その日は幼い私でもスーツを着用。
この日が近づくと、両親は服を整え始め、家族全員の枕元には、下着から全て新品の洋装が用意されていたのです。
普段は、ジーパンやジャージ、トレーナーを着ていても、この日は服を正して出かける。いつもは優しくおだやかな父のスーツ姿は端正で、同じよう服を着ている自分も誇らしく思ったものでした。
父のスーツはなじみのテーラーで仕立てたものですが、私はVANやMcREGERなどの既製品。折々に伊勢神宮に参拝することは多く、その時にスーツを着ることが楽しみでした。
その後、大学進学のために、1984年春に上京。当時はDCブランドが最盛期でしたから、私も奇抜な服を着ていました。麻布十番のディスコMAHARAJAにカジュアルなDCブランドで固めて行ったら、ドレスコードを理由に入店拒否。ほどなくして、スーツで行ったらすんなり入れました。
私は、スーツを着ていて、開かない扉はない、と考えています。
ジェームズ・ボンドも愛用したシャツを扱う
その頃から、日常的にスーツをベースにしたファッションを楽しむようになっていたのですが、「スーツはどの世界の扉も開く」と痛感したのです。さまざまな服を着て、メンズスタイルを研究するうちに、英国のスーツに惹かれていきます。
当然、「一生、英国のスーツに関わりたい」と、当時のアパレル最大手・レナウンに新卒で入社。その理由は、その頃、レナウンは英王室御用達シャツ店であり、ジェームズ・ボンドも愛用したことで知られる「ターンブル&アッサー」や、トレンチコートで知られる英国ブランド「アクアスキュータム」を扱っていたからです。
ファッションの世界に入ってからは、夢中の毎日でした。
シーズンごとに生まれる生地、美しいテラードシルエット、ジャケットの袖とシャツとのバランス、ネクタイの締め方などスーツは奥深く、夢中の日々でした。その後、レナウンを退職し、2007年に「ハケット ロンドン」の日本社の立ち上げに参画。そこから13年間勤務。そして念願だった自分のサロンを今年開いたのです。
今、提案したいのは英国発「Sloane Ranger」スタイル
さて、そこで現代にフィットするスーツスタイルは何をお手本にしたらいいかと考えますと、それは「スローン・レンジャー(Sloane Ranger)」です。これは、私のサロンの名前でもあります。
これは、ロンドンの高級住宅街・チェルシー地区のSloane Streetに暮らす良家の子女たちのスタイルや文化の総称です。
このスタイルのアイコニックな人物は、ダイアナ元妃とチャールズ皇太子でしょうか。上質でシンプルなシルエットのジャケットとシャツ、コーデュロイ素材のトゥラウザーズにフルブローグシューズ(靴全体に穴飾りがついたデザインの革靴)などのスタイルで知られています。
日常に根ざし、流行を問わない着こなしだから、今の私達のライフスタイルに取り入れやすいのです。
アメリカのプレッピースタイルは、大学生発の着こなしでややカジュアルです。それに対し、英国のスローンレンジャースタイルと対比されます。プレッピーよりも、TPOを問わないなところが特徴です。あなたも、今からジャケットをはおるだけで、スローンレンジャースタイルになりますよ。
どうせ着るなら、楽しくカッコよく、長く着られる正統派スタイルを楽しんでみませんか?
今後は、このコラムで、スーツの楽しみ方、歴史、着こなしなどについて紹介していきます。まず、提案したいのは、週に1回、スーツを着ること。服の主流はカジュアルになっている時代だからこそ、スーツが映えるのです。
身にまとうと、背筋が伸び、ググっと若返ります。気持ちも凛とするので、きっと楽しい発見があるはずです。
●大西 慎哉
1965年生まれ 大学卒業後、レナウンに入社し、「アクアスキュータム」など英国ブランドを担当。2007年から「ハケットロンドン」日本支社立ち上げに参画。2020年に退社後、 テーラーサロン「Sloane Ranger Tokyo」を立ち上げる。 アパレル業界歴30年のファッション通で、「おしゃれ番長」の異名をとる。
Sloane Ranger Tokyo オーダースーツの他、20世紀初頭から現代までのヴィンテージスーツや英国の軍服、トップブランドのヴィンテージアイテムも扱う。紳士服の博物館的な要素も。展示品は購入もでき、ファッションアドバイスも行う。
住所:東京都中央区銀座1丁目9−8 奥野ビル 403
03-6263-2230 ※完全予約制
Instagram @sloanerangertokyo