はじめに-津田宗及とはどんな人物だったのか
津田宗及(つだ・そうきゅう)は、堺の豪商です。当時は、「そうぎゅう」と呼ばれていたとか。千利休や今井宗久らとともに、茶の湯の天下三宗匠(さんそうしょう)と称えられました。また、織田信長や豊臣秀吉などの武将ともつながりを持ち、文化面や経済面で協力したことは有名です。
そんな宗及ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-津田宗及とはどんな人物だったのか
津田宗及が生きた時代
津田宗及の足跡と主な出来事
まとめ
津田宗及が生きた時代
戦国時代には、茶の湯(茶道)が大いに流行しました。
茶の湯は文化的な行為であるだけにとどまらず、重要な決定をする会議の場になることもあり、政治的に利用されることもありました。
信長は当時、茶の湯の主要な担い手であった堺の豪商たちと交流を重ね、茶会を開催。また、服属した相手に名物茶器を献上させたり、強制買収(名物狩り)を実施したりして、多くの名物茶器を集めています。
信長の後継者となった豊臣秀吉もまた、禁中で茶会を開いたり、貴賤を問わない大茶会を開催したりするなど、政治的に茶の湯を利用しています。
このように茶の湯と政治の結びつきが強かったことから、著名な茶人たちもまた大きな存在感を示すようになっていきました。
津田宗及の足跡と主な出来事
津田宗及は生年不詳、没年は天正19年(1591)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
その出自
宗及は天王寺屋という堺の豪商の家に生まれます。『天王寺屋会記』を書き始めた宗達 (そうたつ)の子です。天王寺屋は琉球や九州との貿易で財を成し、堺の会合衆の主要なメンバーとなっていました。
天王寺屋の3代目として家業を継いだ宗及は、南宗寺(堺市)で禅や茶の湯の精神を学んでいます。文化的素養が高かった宗及は、唐物の茶器を150点ほど所有。その中には、あの「曜変天目茶碗」もありました。また茶の湯のみならず和歌や華道などにも通じていたほか、刀剣の鑑定にも長けていたと言われています。こうしたことから、道具類の目利きは“当代随一”と言われていました。
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