信長に従う

この頃の堺は強い自主性を保ち、会合衆のような強力な自治組織が発達。また、貿易港として日明貿易や南蛮貿易で繁栄していました。

しかし、そのように経済的に豊かな堺にもやがて戦国武将による影響が及ぶようになります。

永禄11年(1568)、上洛した織田信長は堺に対して2万貫の矢銭(軍用金のこと)を要求しました。この時、信長に従うかどうかの議論が会合衆の茶会で行われています。

会合衆のリーダー格だった宗及は迷います。天王寺屋は代々石山本願寺(大阪市)の御用商人であったことから、本願寺と強いつながりがありました。また、室町幕府で実権を握っていた三好氏とも親交があったのです。つく相手を見誤れば、自身の安全も脅かされます。

最終的に信長につくことを決定。代官を受け入れることにします。これによって、堺の街もまた政争と無縁ではいられなくなったのです。

以降、信長と関わりを持つようになった宗及は、そのつながりをますます深めていきます。所領の管理、年貢の販売、物資の調達などを担当し、畿内から九州までの広いエリアで活動をしていたともいわれています。また、今井宗久とともに3千石を領しています。

宗及は千利休とともに信長の茶頭となり、天正2年(1574)の相国寺の茶会において、利休とともに正倉院の名香・蘭奢待(らんじゃたい)を与えられています。

蘭奢待は奈良時代に大陸から伝来したと伝わる香木のこと。大変貴重でこれを切り取ることができるのは、ごく一部の権力者に限られていました。切り取った者は、当時では将軍の足利義政しかおらず、信長も同じことをすることで権威を示す狙いがあったと考えられます。そして、その切り取った蘭奢待を宗及らに与えることで、堺とのつながりを強固にしようとしたと伺えるでしょう。

蘭奢待

相国寺の茶会で蘭奢待を与えられたのと同じ年、宗及は信長から岐阜城に1人招かれ、秘蔵の紹鷗茄子(茶入)や松島茶壺などの名品を拝見し、料理によるもてなしを受けています。宗及に対する一連の好待遇から、信長が堺の豪商たちの財政支援をいかに重視していたかがわかるでしょう。

秀吉に従う

信長と強い結びつきがあった宗及でしたが、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が没したことにより、その縁も終わりを告げます。本能寺の変が起きた時、宗及は自邸に徳川家康や穴山梅雪らを招いて茶会を開いていました。その後、報せを受けた家康らは急遽帰国することに。

その後は、信長の後継者となった秀吉の茶頭になりました。大徳寺や北野の大茶会に重要な役割を果たし、九州出兵や関東攻めに同行しています。

その後、宗及は天正19年(1591)に堺の屋敷で亡くなります。

まとめ

津田宗及は堺の豪商・茶人として、信長や秀吉といった天下人を支援し、大きな足跡を残しました。政治的にも文化的にも日本の歴史に大きな影響を与え、まさに当時の堺を象徴するような人物であったと言えます。

また、宗及が残した『津田宗及茶湯日記』は当時を知る、大変貴重な資料となっています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
公益財団法人 関西・大阪21世紀協会
公益財団法人 世界緑茶協会

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