はじめに-徳川家康とはどんな人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する、日本史上、最も有名な武将の一人であり、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康(演:松下洸平)。
その名は歴史の教科書だけでなく、数々のドラマや小説でも繰り返し描かれてきました。しかし、「家康って結局どんな人だったの?」「どうして秀吉(演:池松壮亮)の後を継げたの?」と、ふと疑問に思う人も多いのではないでしょうか。
この記事では、家康の生涯を通して、戦国乱世をどう生き抜き、いかにして天下人となったのかをわかりやすく解説します。
『豊臣兄弟!』では、織田信長(演:小栗旬)亡きあと天下一統を狙う豊臣兄弟の眼前に最大最強のライバルとして描かれます。

徳川家康が生きた時代
16世紀の日本は、群雄割拠の戦国時代。守護や戦国大名たちがしのぎを削り、領地と権力をめぐって血で血を洗う争いを繰り返していました。家康が生まれたのはそんな混乱の只中、天文11年(1542)のこと。やがて織田信長が台頭し、信長の死後は豊臣秀吉が天下統一を果たします。
家康は、この2人の英雄と関係を築きながら生き残り、やがて最後の覇者として江戸幕府を開くことになります。
徳川家康の足跡と主な出来事
徳川家康は、天文11年(1542)に生まれ、元和2年(1616)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
三河国岡崎城城主・松平広忠の長男として誕生
徳川家康は、三河国の小大名、岡崎城城主・松平広忠 (まつだいら・ひろただ)の長男として誕生しました。母は、水野氏於大の方 (おだいのかた) 。幼名は竹千代 (たけちよ) で、のちに元信 (もとのぶ) 、元康 (もとやす) と改名し、最終的に家康を名乗るようになります。
家康誕生の逸話としてよく語られるのが、「寅の年・寅の日・寅の刻」に生まれたという「三寅(みとら)の福」の伝説です。ただし、実際には天文12年(1543)の卯年生まれとする説もあり、正確な生年については諸説あります。
祖父・松平清康(まつだいら・きよやす)の代には、岡崎城を拠点に西三河四郡を支配する有力な戦国大名でしたが、清康が暗殺されると松平家は急速に勢力を失います。家康の父・広忠の時代には、隣国の今川氏の庇護を受けて生き残りを図る状況でした。
その後、家康の母・於大の方の兄である刈谷城主・水野信元(みずの・のぶもと)が今川氏に背き、尾張の織田信秀(おだ・のぶひで)と手を結びます。これが原因で松平家と水野家の関係は断絶し、両親は離縁。家康はわずか3歳で母と生き別れることになりました。
幼い家康、人質として織田家と今川家を渡り歩く
6歳のとき、家康は松平家が従属していた今川氏のもとへ人質として送られることになります。しかし、駿府へ向かう途中で護送役の裏切りに遭い、なんと尾張の織田信秀のもとに引き渡されてしまいました。こうして家康は、織田方の安祥(あんじょう)城で約2年間を過ごすことになります。
この人質時代、一説には、のちの宿敵であり盟友ともなる織田信長と初めて出会ったともいわれています。
8歳になると、今川方と織田方の間で人質交換が成立し、家康はようやく当初の行き先であった今川家へと引き渡されます。ただその頃には、父・松平広忠はすでに暗殺されており、松平家の家臣たちがなんとか家を守っているという不安定な状況でした。
以降、家康は19歳までの長い年月を、駿府で「三河の小せがれ」と呼ばれながら過ごします。9歳のとき、安倍川で行われていた印地打ち(いんじうち、石合戦のこと)を見物し、勝敗を的中させたという逸話は、「すでに将としての才を垣間見せていた」と語り継がれています。

14歳で元服し、今川義元の「元」の字を受けて「松平次郎三郎元信」と名乗ります。16歳のときには、今川家の重臣・関口親永(せきぐち・ちかなが)の娘で、義元の姪ともいわれる築山殿(つきやまどの)と結婚しました。
そして翌年、永禄元年(1558)、今川家に背いた鈴木重辰の討伐軍に加わり、これが家康にとっての初陣となります。この頃、名を「元康」と改めました。
「桶狭間の戦い」で今川軍の先鋒として参陣
永禄3年(1560)、家康は「桶狭間の戦い」において、今川義元の軍勢の先鋒(せんぽう)として参陣します。家康は任務として、大高城に兵糧を運び入れる「兵糧入れ」を成功させ、戦功を挙げました。
しかしその直後、主君・今川義元が織田信長に討たれたという衝撃の報が届きます。今川軍は総崩れとなり、大高城の家康は敵中に孤立する可能性に直面。やむなく、夜陰に紛れて城を脱出し、空き城となっていた故郷・岡崎城へ戻りました。
その後も一時は今川方として行動を続けますが、義元を失った今川家からは十分な支援も得られず、家康は自立への道を選びます。岡崎城主として独立を果たし、翌年には西三河の制圧にも成功しました。
永禄5年(1562)、織田信長と「清洲同盟(きよすどうめい)」を結んだことは、今川氏との完全な決別を示すこととなりました。
その後、今川家に人質として預けられていた正室・築山殿と2人の子(信康と亀姫)を取り戻し、永禄6年(1563)には名を「家康」と改めます。「康」は、勇名高い祖父・松平清康の一字を継いだもの。「家」は源義家にあやかったとする説もありますが、こちらは定かではありません。

「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に大敗…
永禄6年(1563)に三河国内で起こった一向一揆は、家康にとって深刻な内乱でしたが、翌年にはこれを鎮圧。さらに東三河も平定し、家康は名実ともに「三河一国の大名」として地歩を固めます。
元亀元年(1570)には、織田信長とともに「姉川の戦い」に出陣。浅井・朝倉連合軍を破るなど、信長との連携を深めていきました。
しかしこの頃、信長と家康はそれぞれ武田信玄との同盟を解消。それにより、家康は信長の背後を守る「盾」のような立場となり、武田軍の西上を一手に引き受けることになります。その代償は、あまりにも大きなものでした。
元亀3年(1572)、「三方ヶ原の戦い」で家康は大きな試練に直面します。武田信玄率いる約2万5千の精鋭軍に対し、家康の軍勢はわずか1万1千ほど。しかも信玄の巧妙な戦術に翻弄され、徳川軍は大敗を喫しました。命からがら逃れた家康は、このときの悔しさを忘れず、以後の教訓としたといわれています。
さらに、天正7年(1579)には信長の命により、正室・築山殿を処刑、嫡男・松平信康を切腹させるという悲劇も経験します(諸説あり)。家康にとって、家族を失うこの決断はあまりに苛酷なものでした。

曳馬城(ひきまじょう、もしくは、ひくまじょう。浜松城の主要な曲輪)へと退却したと伝わっている。
特に三方ヶ原での敗戦では、多くの忠臣が家康を守って命を落としました。この苦い経験の後、家康は「宝の中の宝というは、人材に如(し)くはなし(=何よりの財産は人である)」という言葉を、口癖のように語るようになったと伝えられています。
「本能寺の変」で信長討死により、決死の伊賀越え
天正10年(1582)、「本能寺の変」が起き、明智光秀が信長を討ったと伝えられます。わずかな供回りのみで堺にいた家康は、命の危険に晒され、治安が乱れた近畿地方を横断し、伊賀越え。海路で岡崎城に帰りました。晩年、家康は「(伊賀越えは)大難であった」と振り返ります。
本能寺の変以降、家康は空白地帯となった甲斐・信濃に出陣。2か国を手中におさめ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国を領有する大大名となりました。
秀吉と戦った、小牧・長久手の戦い
天正12年(1584)、家康は織田信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)と連携し、天下統一を進める羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立します。このとき勃発したのが「小牧・長久手の戦い」です。
戦いの中で、家康は見事な戦術を見せ、秀吉軍を破る戦果を挙げました。特に「長久手の戦い」では秀吉方の池田恒興(いけだ・つねおき)・森長可(もり・ながよし)らを討ち取り、大きな打撃を与えました。しかし、戦全体の流れとしては、兵力と外交面で勝る秀吉がやや優位に立っていたともいわれています。
この戦いは、家康と秀吉が直接軍を交えた唯一の戦となりました。そして半年後、両者は和睦に至ります。和議の証として、秀吉は妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに実母・大政所(おおまんどころ)を人質として家康のもとへ送りました。こうして両者は、緊張関係を残しつつも形式上の「同盟」関係に入ることになります。
その後、家康は秀吉の政権下で重臣として行動。天正18年(1590)、北条氏を攻める「小田原征伐」では先鋒として約3万の兵を率いて参戦し、大きな貢献を果たしました。
戦後、秀吉は家康に関東250万石を与え、これまでの本拠地・三河や遠江からの転封を命じます。家康はこのとき、江戸に入城。8月1日(旧暦の朔日)だったことから、この日は後に「八朔」(はっさく)として家康にとって特別な記念日とされるようになりました。
「関ヶ原の戦い」で大勝利、天下人への道を決定づける
文禄元年(1592)、家康は豊臣秀吉の命により、朝鮮出兵に参陣します。実際に朝鮮へ渡ることはありませんでしたが、肥前名護屋に在陣し、戦況を見守る立場にありました。
その後、慶長3年(1598)8月、秀吉が死去。遺児・秀頼(ひでより)に政権を託し、五大老・五奉行による合議制が発足します。しかし、朝鮮出兵の失敗と秀吉の死により、国内の政局は大きく揺らぎ始めます。
五大老筆頭であった家康は、まず朝鮮にいる諸大名の撤退を指揮。秀吉の死を一定期間秘匿し、混乱を招かずに撤兵を成功させるという冷静な対応を見せました。

そして慶長5年(1600)、ついに「天下分け目の戦い」と称される「関ヶ原の戦い」が勃発します。家康率いる東軍と、石田三成らが率いる西軍の間で激突。総勢18万以上が参戦したこの合戦は、わずか6時間あまりで東軍の圧勝に終わりました。
この大勝利によって、家康の地位は一気に不動のものとなります。戦後の処理では、家康が主導し、大名たちの所領の没収・減封・加増(加封)などを大規模に実施。国内の勢力地図を塗り替えるような、全国規模の再編が行われました。
この関ヶ原の勝利こそが、家康を「天下人」へと押し上げた決定的な一手となったのです。
征夷大将軍に就任、江戸幕府を開く
慶長8年(1603)2月12日、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下(せんげ)を受け、正式に将軍職に就任しました。これは、源頼朝以来の「武家政権の正統」を継承する意味を持つ重要な出来事であり、ここに江戸幕府が誕生します。
将軍就任からわずか2年後の慶長10年(1605)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは「大御所」として政治の実権を掌握し続けました。そして慶長12年(1607)には駿府城に隠居。これは、将来起こりうる「お家騒動」を未然に防ぐための周到な政略だったとも考えられています。

その後、慶長19年(1614)と元和元年(1615)に、かの有名な「大坂の陣」が勃発します。発端は、方広寺の大仏の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文字を、幕府側が「家康を分断し、豊臣の繁栄を願うもの」と難癖をつけた「鐘銘事件(しょうめいじけん)」でした。
しかし、これはあくまで「きっかけ」に過ぎず、実際には豊臣秀頼が幕府の命令を無視して江戸に参府しないなど、「服従の姿勢を見せなかった」ことに対する家康の明確な意思があったともいわれます。
そして元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿が自害し、豊臣家は滅亡。名実ともに家康は「天下人」としての地位を確立しました。戦後、家康は京都にとどまり、朝廷の行動を制限する「禁中並公家諸法度」と、大名統制を目的とした「武家諸法度」を制定。これにより、江戸幕府の基盤を強固に築き上げました。
さらに元和2年(1616)には太政大臣に任じられ、形式的にも最高権力者に。これは、武家政権としての江戸幕府が、朝廷や貴族社会に対しても一段高い地位にあることを示す象徴的な出来事でした。
その年の4月17日、家康は75歳で生涯を終えます。遺言により、亡くなったその日のうちに静岡の久能山(くのうざん)に埋葬され、のちに日光東照宮へ改葬されました。
家康が選んだ最初の埋葬地・駿河は、幼少期と隠居後を過ごした思い出深い地。江戸でも京都でもなく、己の原点で眠るという選択には、家康らしい深い思慮が感じられます。


まとめ
天下人となり、260余年にもおよぶ平和の礎を築いた徳川家康の歩みは、決して順風満帆なものではありませんでした。むしろ、幾多の敗北や試練を乗り越えながら、そのたびに学び、備え、力を蓄えてきたのです。
家康が残したとされる「勝つことばかり知りて負くるを知らざれば、害その身に至る」という言葉には、彼の人生観が凝縮されています。勝つことだけでなく、「負けること」や「退くこと」の意味を深く知っていたからこそ、家康は征夷大将軍として武家の頂点に立ち、真の意味で強い政権を築くことができたのでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
協力/静岡県観光協会
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











